「まちの縁側」から「新しい価値を生み出す」交流の場へ。寿ゞ家再生プロジェクトの挑戦

【地域人文化学研究所 天野博之(愛知県豊田市)】

足助の町並みと「寿ゞ家」

三河や尾張と信州を結ぶ旧伊那街道は、太平洋側と内陸部との物資の輸送路として重要な役割を果たしてきました。

江戸時代の主な輸送品であった塩や、荷を運ぶ手段の中馬(馬による陸送手段)にちなんで、「塩の道」「中馬街道」とも呼ばれるこの街道筋で、物資の集散地・商家町として栄えたのが足助の町並み(豊田市足助町)です。

足助町には江戸時代から続く魅力的な町並みが残され、「足助の町並み」として平成23年に重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建と略)に愛知県で初めて選定されました。

その町並みのほぼ中央部、街道から小路を一筋入ったところに「寿ゞ家(すずや)」があります。

寿ゞ家は、江戸時代後期の天保以前から旅館として営まれていました。その後、明治・大正期に料亭へと移行し、最盛期には足助一の名料亭として名を馳せ、往時は30名以上いたという足助の芸者さんたちもお座敷に出入りし、周囲も含めてとても華やいでいたそうです。

現在見られる寿ゞ家の建物は、大正13年に建てられた地上2階・地下1階の木造3階建ての本館、昭和32年に建てられた木造2階建ての新館と付属構造物で、30畳敷きの大広間や茶室等、部屋数は約20、延床面積は3‌00㎡を超える規模があります。

整備着手前の寿ゞ家玄関先。

料亭だった建物なので、典型的な足助の町家とは趣は異なりますが、さまざまな要素が入り混じって一つになっている、足助らしいといえば足助らしく、良質で独特の雰囲気のある建物です。

しかしこれらの建物は、昭和50年代後半に廃業した後、長い間空き家となって手が入れられず、雨漏りやゆがみも生じ、外構や庭も荒れ果て、部屋の中は野良猫等のすみかとなるなど、私がこの建物内に初めて入った平成24年当時には、華やかだった面影を想像できないような廃虚となっていました。

この寿ゞ家の建物を再生活用して面白いまちづくりの場をつくろうと、私が始めたのが「寿ゞ家再生プロジェクト」(以下、寿ゞ家再生と略)です。

現状の寿ゞ家玄関上がり口。

義理と人情と寿ゞ家再生

足助出身でも住民でもない私がこの建物と出会い、再生活用まで行うようになったのは、足助の町並みの重伝建選定の経緯が関係します。

豊田市の職員である私は、豊田市と東加茂郡足助町(旧足助町)の合併(平成17年)を機に、当時文化財課に所属していたこともあり、足助の町並みの保存活用に関わるようになりました。

豊田市と旧足助町の合併協議の中には、文化財的な手法による町並み保存の計画はなく、都市整備的な景観整備による旧足助町の中心街区としての整備が行われる予定でした。

しかし、当初進められていた計画の中には、足助の町並みが歩んできた文脈とは異なる整備の提案など、本来守るべき町並みの本質的な価値が崩される危険性も含んでいました。

善意で事業を進める側はもちろん、地元の方にもこれに気付く人はなく、その様子を見ていた私は、市の方針にある意味逆らうように、重伝建制度を利用して町並みの本質性を保存・活用しながらまちづくりをすることを、町並みに住む人たちに向かって提案し、その実現に向けた行動を起こしました。

この行動は、所属の決定もなしで制度的な補償も約束も何もできない状態での私個人の見切り発車でした。

しかし、これまでにその土地が積み上げてきた歴史や文化の重みや、時代性や材の使い方などを含めその建物がその姿でそこにある理由など、町並みが語る物語を住民の方に認識してもらい、その土地の本質を生かしたまちづくりのため、行動を止める理由はありませんでした。

筆者近影。背景は寿ゞ家大広間舞台。

地元の自治会長会にまちづくりの選択肢として重伝建を提案した後、建物を取り壊す予定があると聞けば、その中止を所有者と交渉したり、都市整備部局の地元説明会に同席して、足助町の各町へ重伝建制度の説明に回ったり、足助まちづくり推進協議会の中に伝建部会を設置するなど、業務の範囲なく活動を進め、町の人たちを巻き込みながら町並み保存活用の機運を高めました。

重伝建への道筋が見えてきた平成21年には足助支所へ異動となり、「足助まちづくり宣言」の策定や景観相談会の設置、各種の催事実施など、より地域側に立ったまちづくりの調整もしてきました。

元伝建部会の方が活動を振り返って「天野の熱意にほだされた」と話してくれましたが、一方の私も地元の方から「お前にだったら、きれいにだまされてやる」と指さされて言われ、「それならば、きれいにだまし続けなければならない」との思いを強くしてきました。

その町並みの保存活用に協力してくれた人たちへの義理と人情が、ご縁として寿ゞ家再生につながっています。

廃虚から「まちの縁側」へ

まちづくりは個別課題の解決の集合体でもあると思います。地元の方々と一緒に動く中でも、個々に課題の異なる人たちに町並みの将来像を理解してもらうのは難しいことでした。

誰も見たことがない見えない未来を見えるようにするには、自らの行動でその形を示し続けることが大事と、私には思えました。

整備着手前の室内の様子(本館座敷)。

そこで、比較的簡単な修繕により建物を維持して次の世代に伝えていくこと、古い家屋でもさまざまな活用の方法があることを地域の人に示し、地域の内外の境にあって誰もが気楽に交流できる場所「まちの縁側」となる場を設けることを企画していた時、たまたま当時の所有者とつながりができ、寿ゞ家という活動場所を得ることができました。

寿ゞ家再生は全く私個人の仕事なので、公の仕事との区別を明確にするため、異動により足助支所を離れた平成25年から本格的に開始しました。

まずは普通に人が中に入れるよう、生い茂った樹木の伐採から不要家財の処分、ほこりまみれの室内の清掃などの作業から、最低限の建物維持管理ができるよう、添え柱等による構造補強、雨漏り修繕などの工事も行いました。

ごみの撤去費や修繕費、設備など年に百万円ほどの投資もしてきましたが、多くの人にも関わってもらい、相応の労力もかけて作業を実施してきました。

寿ゞ家の南庭の整備作業の様子。土も岩も自分たちで動かします。

ありがたいことに、ご近所をはじめ地元の方々からも活動に対するご理解やご協力をいただき、水道やトイレの利用などの便宜を図ってもらえるなど、いつも温かいお声掛けをいただいています。

整備と同時並行で活用も図り、地元の方々を対象とした講座を開催したり、芸術系の人たちや地域外の方々にも発信できるアートイベントを実行委員会形式で実施したり、足助の夏祭りの花火観賞会、秋には月見会など、寿ゞ家独特の空間を生かした催しを行い、さまざまな交流を図ってきました。

年間の公開日数は60日程度ですが、おかげさまでこれまでに1万人近くの来訪者を迎えています。

点から線、そして面へ

寿ゞ家再生プロジェクトによって空き家が使われるようになると、町並みの景観向上だけでなく生活環境も明るくなり、ご近所の方にも喜んでもらっています。

当初は借用していた建物は、現在は私が譲渡を受け個人所有となり(土地は別の所有者から借用中)、活動のみでなく所有者としての立場にもなりました。

そして、寿ゞ家に隣接する地蔵小路や建物(一隅舎)の維持管理を自治区や地元の方から委任され、寿ゞ家と一体の活用を図るなど、活動は寿ゞ家だけにとどまらず、点から線につながっています。

また、主催事業のほかに寿ゞ家を各種の演奏会や地元の踊りの練習などにも利用してもらうなど、活用方法も拡大し、活動の影響が寿ゞ家再生を面白がってくれる人たちや各方面に広がっています。

この面白いと思ってもらえるような価値観を新たに生み出すことが、町並みでの暮らしづくりのために今後ますます重要になってくると思っています。

なお寿ゞ家再生は、地域人文化学研究所(ちいき/じんぶんかがく/けんきゅうしょ:以下、研究所と略)というNPOの任意団体の事業として実施しています。これは、行政等の機関と住民個人の中間に立つ組織が必要と考え、寿ゞ家再生を機に立ち上げました。

研究所は、人・地域・資源の間に立って楽しくなるようなコトを起こす触媒の役割を果たすことを目的として、寿ゞ家再生のほか、「とよた世間遺産」の認定事業などの事業実施や、とよた五平餅学会や山里暮らしの理想郷・富永のまちづくり、農村舞台寶榮座保存協議会の活動支援など、私の個人プロジェクト的な要素も強いながら、豊田市内のさまざまなまちづくりと寿ゞ家を結んでいます(研究所の活動等詳細については、HPをご覧ください)。

寿ゞ家再生これからの挑戦

活動は拡充していますが、寿ゞ家再生は残念ながら空き家の活用などの課題解決までには至っていません。

今後の地域の課題解決のために、寿ゞ家の独特な空間を楽しみながら、歌舞演劇から飲食の提供や新たな管理方法の試行など、寿ゞ家をより多様な使い方ができるようにし、「まちの縁側」から、もっと面白いコトをここで起こせるように、大人が遊ぶ場「遊郭」(あくまでも現代版の)へと役割を一段階進め、保存の先の活用の姿を示したいと考えています。

大広間で開催されたロックな演奏会の様子。

そのためには、これまでの応急的な建物維持から一歩踏み出し、本館の構造が脆弱な部分の除却と構造補強、上下水道の接続工事やトイレの整備がどうしても必要となります。そこで、今後のまちづくりの仕掛けも試しながら、これらの整備を進める計画をしています。

まず必要となる除却工事のための資金調達を、クラウドファンディングで行うことを計画しています(募集期間2018年8~10月)。

ご協力いただいた方への返礼品には、かつて足助の山里で行われていた生業の技術を引き継ぐ「三州足助屋敷」の職人たちとコラボした、寿ゞ家オリジナル製品も用意する予定です。

この足助初の試みは、今後誰かが空き家再生等の活動を計画する際に資金調達をしやすくすることや、新たな足助の産品を作る仕掛けでもあります。

もう一つの仕掛けとして、今回の改修設計に複数の建築士等に参画してもらい、足助ではまだうまく機能していない設計士間の情報交換や施主との調整などを行う場づくりの実験をしています。今後の空き家などの活用を展開する素地をつくりたいと考えています。

寿ゞ家再生は、その時々に期待される機能を果たし、足助の町並みでの暮らしをより魅力的にする取り組みを今後も続けたいと思います。

この記事をご覧になったのも一つのご縁として、クラウドファンディングへのご協力をぜひお願いします。

研究所のHPFBなどに活動の様子やクラウドファンディングについての情報も掲載していきますので、どうぞよろしくお願いします。

寿ゞ家大広間にて、足助の町並みの皆さんとの一コマ。前列中央の白いTシャツ姿が筆者。

(おわり)

※この記事は、雑誌『かがり火』182号(2018年8月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。

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