お金を目指さない人生はすがすがしい ふるさとの山河を女性像に投影したいという彫刻家・勝野眞言さんの哲学

本誌『かがり火』は、“面白い人物をよく探してくるものですね”と声を掛けられることが多いのですが、ほとんどは支局長や読者からの情報提供によるものです。

今回ご紹介する勝野眞言さん(65)は、原宿表参道(+六本木)支局の西村一孝さんから強い推薦がありました。

西村さんが勤務先の六本木ヒルズに向かう途中、近くのストライプハウスギャラリーで彫刻展が開かれていたので、何気なくのぞいたそうです。展示されていた女性像に不思議な魅力を感じた西村さんは、居合わせた作者の勝野さんに名刺を差し出して話し掛け、たちまち意気投合してしまったというのです。

ふらりと立ち寄ったギャラリーで、短時間で親しくなり、その上『かがり火』の購読まで申し込んでいただくという西村さんの天賦の才に驚きますが、それに応じた彫刻家にも敬服するばかりです。

熊本に行く機会があったらぜひ会ってほしいと、西村さんから渡された彫刻展のチラシのプロフィルに、勝野さんは南木曽町生まれとありました。南木曽町は「木曽は山の中であり、木は気である支局」の柴原薫さんが暮らす町です。たちまち親近感が全開となってしまいました。

そんな経緯があって、5月下旬、熊本県菊池市の「白金の森」へ向かう途中、寄り道して勝野さんを訪ねました。(本誌:菅原歓一)

※この記事は、雑誌『かがり火』181号(2018年6月25日発行)に掲載された内容を、WEB版用に若干修正したものです。

木曽の山中で一人で遊ぶことが多かった少年時代

勝野眞言さんは、熊本県崇城大学芸術学部美術学科の教授でした。インタビューは先生の作品が所狭しと並べられている大学の研究室で行われました。

勝野さんは1954年、長野県南木曽町で生まれました。父親は戦後、木曽林材興芸株式会社という製材所を始めたということですが、起業するまでの道程は興味深いものでした。

「私は1901年生まれの父が50歳を過ぎてから生まれた子どもですので、父の思い出は多くはありません。島崎家(島崎藤村の母の生家)とは代々支え合った付き合いの深い関係にあり、明治維新の時、一時保証人になっていたこともあると聞いたことがあります。南木曽町は木曽の山中ですが、父は学問で身を立てようと考えたらしく、高校は名古屋の旧一中(現旭丘)、大学は早稲田で文科を学びました。

関東大震災の後だったようですが、大学を卒業した父はパリに留学しています。どういうきっかけか知りませんが政治活動に夢中になり、フランス共産党に入党しています。社会の下層にいる人々を平等にしなければならないという考えがあったようです。ところが好ましからざる人物として追放され、ドイツ経由でソ連に渡りました。このころ片山潜(日本の労働運動家。1859年〜1933年)の秘書をしていたというのです。ソ連で生活しているうち、スパイの嫌疑がかけられ、ラーゲリ(強制収容所)に送られましたが、ようやく解放されて逃げ帰ったのが満州事変の後でした」

勝野さんの父は、波乱の前半生を送ったようである。

「母親は父と20歳も年が離れていて、浦和一女を出ている優秀な人でした。なぜ父と結婚したのかと聞いたことがあるのですが、結婚はお見合いで、自分で決めるより先に、〝一緒になりなさい〟という親の言葉に従ったということでした。母親は9人の子どもを産み、一人が亡くなったので私は8人きょうだいです」

勝野さんの家は南木曽町でも中心地から離れた一軒家で周辺に民家はなく、友人と遊んだ記憶はない。

妻籠小学校、妻籠中学校は重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に指定される前の妻籠宿の真ん中ぐらいにあり、同じ道を9年間通った。今でも路傍にある石まで記憶している。

当時は藤村文学を愛する人が訪ねてくる程度で、観光客は少なく、勝野少年にとっては見知らぬ人が歩いていると〝人が来た!〟と興味津々だったという。

勝野さんは子どものころから絵を描くことが好きで、工作なども得意だった。小学校6年のころは将来は美術関係に進みたいと思っていた。

しかし健康診断で緑色の中にある赤色を識別することが困難な色弱であると告げられた。当時、色弱はパイロットや医師や教師、警察官や消防士など多くの職業に就けないと言われていたのでショックだった。

蘇南高校3年の夏休みに大学進学のために東京の予備校に通ったが、受験勉強に集中できず、自分の進むべき道ではないと思った。

「それで、方針を変えて美大を受けることにしたのです。ただ、私は色弱であったため、絵のほうは無理だろうとあきらめて彫刻を選択したのです」

将来は一人でやれる仕事に就きたいと思っていたという。

葉(2007年 162.0×45.0×32.0 テラコッタ)

お金には縁のない創作活動に没頭した

大学院を出た後は当然ながら彫刻で稼げる道はなかったが、一般企業に就職はしなかった。

「彫刻家になろうとした時、経済的には困難なことを覚悟していましたし、何とかなるさと楽天的に考えていました。実際、アルバイトで何とかなったのです。12年前、50歳を過ぎてから崇城大学に就職したのが初めての定職です」

勝野さんは、美大を目指す学生のための予備校の講師の仕事や、出版社から依頼された挿絵などを描いて生計を立てた。その間、作品はなかなか売れなかったが、創作は中断することなく続けられた。

勝野さんは、自分の創作の原点はふるさとの風景にあるという。

「大学1年の時、裸婦のクロッキーがあったのですが、横たわった女性をみて、何だ、木曽の山並みとそっくりじゃないかと思ったものです。折り曲げた膝、くびれた腰に続く肩、その上にある頭を見ていたら、きのこを取って遊んだ山、その奥に広がる国有林、遠く雪を頂いた駒ヶ岳までも連想しました。自然の大きさ、奥行きの深さを女性像で表現したいと創作意欲が湧きました」

人体像には奥深い魅力が埋まっているという勝野眞言教授。崇城大学芸術学部の研究室にて。

勝野さんが彫刻家としてやっていけるかもしれないと自信らしきものを感じたのは39歳の時、初めて開いた個展が好評だったからだという。

芸術家というのは何と迂遠な職業であることか。経済的に苦労をしながらも、世間の雑事にとらわれず女性像の制作に没頭してきた勝野さんに、すがすがしさを感じないではいられない。

そういえば日本を代表する彫刻家で、女優の佐藤オリエさんの父である佐藤忠良氏が、何とか生活できそうになったのは50歳を過ぎてからだとエッセーに書いていた。貧乏だったためオリエさんにはピアノを習わせられなかったと回想している。

芸術家にお金に関する話をするのははしたないことだけれど、凡人はどうしても関心がそっちのほうに行ってしまう。勝野教授は次のようなエピソードを話してくれた。

「私の先輩の彫刻家がフランスに修業に行ったのですが、フランス人女性と親しくなって結婚したんです。しかし作品は売れず生活は困窮し、その日のパンにも事欠くありさまだったといいます。ある日、ようやく作品が売れて何がしかのお金が手に入り、奥さんに渡したところ喜々として買い物に出掛けたのですが、帰って来た奥さんの手には花束が抱えられていたというのです」

美というものは飢えをも凌ぐものなのか。あるいは芸術家というのはかくまで困難な暮らしを強いられるものなのか。本誌はこの挿話から何を読み取っていいのか分からない。

「まあ彫刻家というものはお金とは縁がないというのは確かなようですが、しかし私はこの道を選択したことを後悔したことは一度もありません」

と勝野さんは笑った。

標・Ⅲ(2010年 21.0×71.0×15.5 陶)

勝野さんは自分をお百姓さんに例える

彫刻家は鉄や石や木などさまざまな素材を使用するが、勝野さんはほとんど土である。

「お百姓さんは鍬で大地を耕して、土に空気を入れていい土壌を作りますが、毎日土をこねくり回している自分も同じようなものです。私は自分の手は鍬か耕運機のようなものだと思う時があります。何もないところから、土をこねて頭や胴体を作り、余分な土を削ったり足したりして形を作っていくのですが、どこか農業に似ているところもあると思っています」

これまで何十何百もの人体を作ってきても勝野さんは飽きることはなく、まだまだ人体像の魅力に取り付かれている。紀元前2万年ころのものとされる女性像がヨーロッパ全土から発見されていることからも想像されるように、彫刻家にとって女性像は永遠のモチーフなのかもしれない。

「作品は売れればうれしい。しかし、売れることを考えて作るのでは、いいものは作れない。いい作品は人に元気と感動を与えるから結果的に売れるのです。一時、自分の仕事に疑問を感じたこともあったのですが、豊かな土壌に恵まれた熊本に来られたおかげで新たなスタートラインに立つことができました」

2010年3月から翌年の1月まで、熊本県津奈木町のつなぎ美術館が長期にわたって「大地のメモリア」を主催した。このイベントは美術という表現活動を手段に地域資源を再検証して、地域の価値を再評価しようというもので、住民の知識や感性を育んでいこうとする試みだった。

津奈木町は、緑と彫刻のあるまちとして有名で、佐藤忠良氏をはじめ、松尾光伸、岩野勇三、笹戸千津子さんなど著名な彫刻家の作品が、まちのあちこちに展示されている。この期間中、9月18日から12月5日まではつなぎ美術館で「勝野眞言彫刻展 記憶の軌跡と出会うとき」が開かれた。この時、勝野さんはファシリテーター(案内役・進行役)を務めた。

「非常に大胆で刺激的なイベントでした。ワークショップの参加者は住民から募り、子どもも大人も大勢の人が参加してくれました。会期中は津奈木中学校、久木野中学校とも連携し、私は出張授業もしました。素材はすべて地元のものにこだわり、水俣市久木野の瓦工場の跡から1トンの土を採取し、子どもたちが足でこねて彫刻用の粘土を作ったのです。私ははだしで田んぼを走り回った経験がありますが、参加した子どもたちにとっては足の指の間ににゅるっと粘土が入り込む感触はおそらく初めてのものだったと思います。

参加者は顔や動物や人体などさまざまな作品を作りましたが、これらは耕作されていない遊休地にブロックとトタンでつくった釜で焼成しました。燃料となる籾殻は近隣の農家から集めてきたものです。完成した350点の作品は、図書館や文化センターなどの前に陳列され、住民に鑑賞してもらいました。彫刻は立派な地域資源になるということを証明したイベントだったと思います」

「大地のメモリア」で、水俣市久木野で土を採取する勝野さん。

地域資源といえば有名な神社仏閣や景勝地、温泉などを考えてしまうが、彫刻にとっては大地こそが最大の資源なのである。

このイベントの期間中、まちには晴れやかな風が吹き渡り、人々の顔は生き生きしていた。よそから観光客を呼び込んで経済効果を追求しようとしない立派なまちづくりもあるのである。

(おわり)

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