“肥後もっこす” 吉田富明さんのミニトマトにかけた青春

熊本県玉名市(旧岱明町)の吉田富明さん(62)は、年に数回、大きな荷物を抱えて上京する。

栽培しているミニトマトのほかに、有明海のノリやアサリのつくだ煮、テナガダコやシャク(アナジャコ)を煮たものなどを容器に入れて持参する時もある。人に喜んでもらいたいというサービス精神が旺盛なのだ。

吉田さんは古くからの読者であり、支局長である。本誌が熊本県を訪問するたびに自宅に泊めていただき、取材先に車で案内してもらうなど大変お世話になっている。

親し過ぎて、これまで吉田さんがどんな人生を歩んできたかを伺う機会はなかったが、本年7月に玉名市で開催される「全国まちづくり交流会」の打ち合わせで訪問した際に、彼の青春を初めて知ることになった。

※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』179号(2018年2月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。

自動車会社に勤務していたころ

吉田さんには、苦い思い出がある。昭和47年3月に熊本県高等農業学園(旧熊本県経営伝習農場)を卒業した彼は、翌月から父親の農業を継ぐ準備をしていた。

4月中旬のある寒い晩のことだった。

「そのころ父親は、ハウスではなくトンネル栽培といって、畝をトンネル状にビニールで覆う方法で、カボチャやキンショウメロンなどを作っていました。その夜、『今夜は冷えるけんが、菰ばかぶすか』と言ったんです。霜が降りる気配がある時は、いつも莚を二重に編んだ菰をかぶせていたのですが、僕は面倒くさいこともあって何げなく『大丈夫ばい』と答えてしまったんです。翌朝畑は一面霜に覆われて、一夜にして作物は凍傷にかかり、全滅してしまいました」

父親は「ほら見い、言うたろうが」と言って茫然と立ちすくんでいたという。一瞬の気の緩みが取り返しのつかないことになってしまった吉田さんは、いたたまれなくなって玉名市のハローワークに駆け込んだ。紹介されたのは東京中野に本社のある日本ラジエーターという会社だった。18歳になる直前だった。

「東京に出たのはこの時が初めてでした。失敗がきっかけの上京でしたが、あのころ、はしだのりひことシューベルツの『さすらい人の子守歌』が好きで、いつかは家を出て、全国を旅したいという夢もありました」

いまは走っていないが、夜行寝台列車「みずほ」で東京に向かった吉田さんは、揺れる列車と緊張のせいで眠れないままに大都会に着いた。本社で簡単な手続きを終えると、吉田さんの配属先は厚木工場と告げられた。小田急線に乗って初めて眠気に襲われたという。

工場では日産やマツダ向けのラジエーターをつくった。初めは日給1000円の見習社員だったが、半年たって正社員に採用され、1カ月の給料が3万円になった。高度経済成長は終わりかけていたが景気は力強く、工場では多くの出稼ぎの季節労働者も働いていた。テレビでは連日、沖縄返還のニュースが流れていた。

1年半後、親しくなった仲間に誘われて日野自動車へ変わり、次いでいすゞ自動車に移った。ばつの悪い上京だったが、それでも成人式の時は田舎に帰り、車の免許も取得した。家を出て3年後、もともと本気で東京で暮らす気のなかった吉田さんは21歳の時、帰郷して就農した。

「わが家の農地は1.2ha、父親はJAの推奨もあって野菜からイチゴに転換していました。ほかに米を6反耕作しており、食ってはいけるものの家計は大変だったようです。僕は農業の傍ら伯父がやっていたノリを手伝い、数年後、稼いだお金で中古の漁船を買ってタイラギ漁を始めました。タイラギというのは有明海特産の二枚貝で、結構高値で取引されていました。佐賀県太良町のプロの漁師に頼んで潜って採ってもらうんです。

漁師は奥さんと船頭の3人セットで、僕の船に乗って漁をしてくれます。僕はタイラギを引き上げたり、貝をむく役目でした。1日に100㎏ぐらい採れましたから、20万円から30万円の稼ぎになり、僕の取り分は少ない日でも3、4万円、大漁の時は10万円を超えました」

そのころの有明海はアサリも豊漁で、漁師だけでなく街場からサラリーマンなどもやってきて潮の引いた夜の浜は混雑した。採り放題ではアサリが枯渇するので、漁協は1人10㎏入りのネットを3袋までと決めた。

頭数で配分したものだから足腰の立たない老人まで浜に連れてこられてネットを確保する騒ぎだった。家族3人分で90㎏の収穫があるので1時間ほどで2〜3万円になり、結構な副収入になった。そのアサリもいまはほとんど採れない。

また吉田さんはイチゴが暇な時は近くの日立造船の下請け会社へ臨時工として働きに出て、鉄板を運搬したりした。日給6000円だった。彼がミニトマト栽培を始めるきっかけとなったのは、昭和59年の雪害だった。

「その年は20㎝の大雪が降って、ハウスがつぶれてしまったのです。それに大雨が降れば冠水する古いハウスだったので、制度資金を借りて、40㎝の客土をして最新式のハウスに建て替えました。

新しくなったハウスでもイチゴを作ったのですが、イチゴは家族に過重な負担をかける作物です。朝、収穫したイチゴを夜なべ仕事で選別してパック詰めするのですが、出荷の最盛期には夜中の2時3時になります。

イチゴは温かければ傷むので寒くても暖房はつけられないし、少し力が入ればつぶれてしまう。そおっと扱わなければいけないので神経もすり減らし、父親も母親もへとへとになってしまって、これでは家族の体が持たないと思い、何かいい作物はないかと探し始めたのです」

そのころ、隣町の旧横島町にはミニトマト農家がたくさんいたが、岱明町にはいなかった。ハウスの規模や家族労働、作業性を考えて、吉田さんは所属していた「JA鍋」に、「ミニトマトをやりたい」と相談に行ったところ、「まるを作らんね」と普通の大きなトマト栽培を勧められた。

「いま考えると、JAは一軒の農家だけでは出荷量が少なく、実績もないので売る自信がなかったのかもしれません。ブランド力もない作物の販路を開拓するのは難しいことですからね」

塩トマトを収穫中の吉田富明さん。

市場外流通の辛酸

現在、玉名市は全国一のミニトマト生産地である。JAたまな(平成5年、2市8町のJA が合併)に所属するトマトの生産農家は199名、栽培面積93‌ha、一昨年の総収量9828t、売上高53億8500万円。

この中に吉田さんの売上は含まれていない。なぜなら吉田さんはJAには出荷していないからである。吉田さんがJAではなく、直接、市場や顧客に出荷しているのは、合併前の「JA鍋」のトマト部会から除名されてしまったからだった。いまだから話せるという真相はこうである。

「ミニトマト栽培を始めて3年目だったと思いますが、JAのほうからそれまで3㎏の箱詰めで出荷していたものを、1パック200gのポリパックに包装してほしいと言ってきたのです。それまで出荷していた千葉県のある市場とイチゴのことでトラブルになり、ミニトマトもとばっちりを受けて納入できなくなったようでした。

新たな取引先を探すためにも、納品形態を変えたのかもしれませんが、1パック200gの容器に詰めて出荷するのは大変手間のかかる作業です。ところがその1パックが50円というのです。それまで3㎏の箱詰めが3000円だったものが、手間がかかる上に価格が4分の1になってしまったのでは、とてもやっていけるわけがありません。

それに隣の『JA高道』のミニトマトは1パック100円で売られているのですよ。納得のいかない価格設定でした。しかも包装パッケージが1箱12円、手数料が5円もかかる上に、運賃も払わなければなりません。他にアルバイトの人件費、重油代、肥料代、農薬代、ハウスのビニール代もかかっていますから、とても納得できる話ではありませんでした」

担当課長に「これじゃあやっていけない」と説明を求めたが、返答はしどろもどろだった。できるだけ冷静に話しているつもりでも思わず吉田さんの声は高くなっていた。

課長は部下のいる前で組合員からクレームをつけられたことを恥をかかされたと思ったのか、数日後、仲間の農家から「お前はトマト部会から除名されたぞ」と告げられた。

課長からも組合からも正式な除名の通告はなかったが、誇りを傷つけられた吉田さんは再びJAに出荷することはしなかった。

「課長は、少し脅かしてやれば泣きついて戻ってくると思っていたようですが、僕はJAに頭を下げなければならない理由は少しもありません」

除名を告げられたけれど、反対に闘争心が湧き上がった。

「確かに、その後の販路開拓にはさんざん苦労はしたけれど、〝肥後もっこす〟というのでしょうか、なにくそという気持ちのほうが強かったです」

現在栽培している品種は小鈴、千果、アイコ、塩トマト、みどりちゃん、イエローミニ、バイオレット、スイートミニ、千果オレンジなど。

絶対的信頼を獲得した吉田農園のミニトマト

何の作物でも簡単にできるものはないが、ミニトマトも難しい。栽培を始めたころは、皮がはじけるのに悩まされた。

「収穫する時は何の問題もないのですが、出荷するころになると、プチッとトマトの表面の皮が割れてしまうんです。ハウスの中は30度ぐらいになるので、外との気温の差から起きる現象でした。経験の浅いころにはこれを防ぐのにずいぶん苦労しました。

それに、暑い時期には虫が発生してしまいます。粘着テープでは取り切れない。ハウスへの出入りをどんなに慎重にしても入って来るんです。簡単には殺虫剤を使いたくないし、開花時期にはハチを殺してしまうことにもなります。

その上、ハウスの中の湿気でトマトにカビが生えやすくなるのですが、これらを一つひとつ解決して、ようやく合格点のミニトマトを作ることができるんです」

吉田農園は、奥さんや妹、甥、姪、それにパートさんで運営している。

吉田さんは土壌づくりにもさまざまな工夫をしていて、ハウスの中に麦わらを細かく裁断したものや、使用済みのキノコ栽培の菌床を敷いている。

「温度の調節、水をやるタイミング、同じハウスの中でも場所によってミニトマトの味が微妙に違ってきます。30年間やってきましたが、まだまだ満足していません」

吉田さんがJAに出荷していた時は、搬入した時点で作業は「終わり」という感覚だったが、自ら顧客を開拓し、市場外流通に転換してからは出荷した後からが本番だった。

「直売というのは、お客さんから〝おいしか!〟というお褒めの言葉を直接聞ける一方で、不良品があった場合はストレートにクレームが入ってきます。それでもお客さんの顔が見えるほうが何よりやりがいになります」

吉田さんが、地域づくりに関心を持つようになったのは昭和59年の雪害でハウスがつぶれたころからである。岱明町には商工会はあるものの、地域づくりグループはなかった。4Hクラブはすでになくなっていた。

農業祭のようなイベントもなかったので、役場のアドバイスもあって、「岱明町農業者クラブ」を設立した。これでは堅い名称だというので、町花にちなんで「コスモス会」と命名した。

コスモス会は、無人販売所を立ち上げたり、花のタネやプランターを小・中・高の学校に贈ったりした。コスモス会の活動がきっかけになり、熊本県が主催する地域づくり大会にも参加するようになった。

各地のまちづくりのキーパーソンたちとも知り合うことができた。熊本県の職員だった故福本建明さん、姫戸町で炭を焼いていた溝口秀士さん、水俣市の愛林館の沢畑亨さんなどと知り合った(いずれも『かがり火』支局長)。

現在、吉田農園のミニトマトは、熊本市にあるニューオータニホテルズの「ザ・ニューホテル熊本」の総料理長の絶大な信頼を得ている。

また同じ熊本市内の全国的にも有名な産婦人科の福田病院では、入院患者さんに供されるだけでなく、病院内のレストランで使われ、病院はトマトカレーやケチャップも商品化している。

吉田さんはJAを除名されて良かったのかもしれない。営業で訪ねる先の人と友人になってしまう特技があるからだ。商品を売ってお金をもらう関係以上の、人間的なつながりをつくる天才なのである。

JAに出荷していれば他には出荷できないから、ずいぶん世界は狭いものだったろう。親しくなった人たちに「自分で作ったミニトマトを食べてみてください」と言えないのは、吉田さんにとっては何よりもつらいことだったに違いない。

吉田農園のすぐ隣が有明海。海からの潮風が濃厚な味のトマトをはぐくんでいる。

<吉田さんからのメッセージ>

今月号の『かがり火』に広告(23ページ)を出しました。読者の皆さんに、私が作るミニトマトを味わってほしいからですが、『かがり火』を応援したい気持ちもあります。

『かがり火』と出会って、私の人生はどれだけ豊かになったか分かりません。全国の素晴らしい人たちと知り合うことができたのも『かがり火』のおかげです。2009年に休刊した時は本当にショックでした。

大企業が『かがり火』の価値に気が付くには時間がかかりそうなので、身の程も知らず広告を出したというわけですが、気持ちはカンパです。馬路村のように毎号は出せませんが、余裕がある時は出したいと思っています。

『かがり火』を愛する皆さん、個人広告を出して支援しようじゃありませんか。

(吉田富明)

【ご注文先】
〒869-0211 熊本県玉名市岱明町鍋3340
TEL & FAX:0968-57-0895
MAIL:qqap4ta9k@globe.ocn.ne.jp
(ご注文はFAXかMAILでお願いします)

(おわり)

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