黒川みどり先生の近著、『被差別部落に生まれて~石川一雄が語る狭山事件』(岩波書店)を読んで、うれしくて、感想を書きたくなりました。
狭山事件、狭山闘争を知らない方も多くなりましたが、一世代以上前の大学や職場では立て看が並びたくさんのビラがまかれていました。
狭山事件とは、1963年埼玉県狭山市で高校生が行方不明になり、身代金を要求した犯人を警察が取り逃がし、被害者が遺体で発見された事件です。初めから被差別部落を中心に捜査され、石川一雄さんが別件で逮捕され、一審で死刑判決、二審で無期懲役判決、最高裁で上告棄却で確定され、再審請求中です。石川さんは1994年に仮釈放になるまで、32年間獄中にいました。
黒川先生の本は自分の視点で「狭山裁判闘争」をどうとらえるのか、石川さんへのインタビューを通じて明らかにしたいと主張されています。それに共感を覚えました。狭山差別裁判糾弾闘争は思いもかけずに長い闘いになっています。それぞれが狭山闘争にかかわってきた自分の立場を思い返すことで、どのような意義があったのか、今こそ明らかにすべきではないでしょうか。
石川さんは逮捕当時、自身が被差別部落に生まれたことを知らず、文字の読み書きができませんでした。仮釈放後の石川さんのお話しから、獄中で看守に文字を教えてもらったことは聞いていました。看守は学生時代、狭山闘争にかかわる友人がいたのです。その詳しい状況がこの本に書かれています。
看守がおしえてくれた最初の漢字が、「無実」という言葉、次の言葉は「たすけてください」です。その書き方を教えてくれただけでなく、支援者に手紙を出せと言って、お連れ合いと協力して処分覚悟で便箋や封筒、切手、国語の辞書を買い与えたのです。石川さんは「無実です。たすけてください」と書いて出すことができたのです。
思い起こせば、70年代、80年代の石川さんの獄中アピールはとても激烈でした。そのアピールが集会で代読されるたびごとに、戦闘的な内容に当時の私たち学生たちが「うれしくなってしまった」という状況がありました。それはいま思うと、観念的で何もわかっていなかったとくやしい気持ちがこみ上げます。未だに有罪判決を覆すことができない責任を思うと、力がなかったことが誠に恥ずかしいことです。何としても再審裁判所に無実を認めさせないといけないと思うのです。
でも、石川さんが、私たちのようなどうしようもない学生ですら「喜んで」しまうような内容のアピールを、当時なぜしたのでしょうか。その理由がこの本を読んでわかった気がしました。
おそらく、石川さんは、自分に文字を教えてくれた看守が、なぜそんな親切にしてくれるのかと思ったとき、看守を通じて自分の無実をおしえた学生のことを考えたはずです。その学生が誰なのかはわからないけれども、自分を救ってくれるものに連なる学生を信頼したのではないでしょうか。私たちのようなどうしようもない者たちへも、その恩返しの気持ちを込めてあのような内容のアピールを書いてくれたのではないかと思うと胸があつくなってきます。
<評者プロフィール>
添田直人
両親は東北地方出身で、父はガラスコップ工場の労働者、母は結婚前は紡績工場の労働者で、結婚後は金融機関の店舗によくあるマスコット人形の絵の具塗りの内職をしていました。私は1958年に葛飾区の金町に生まれ葛飾区で育ちました。
葛飾区の面積の20パーセントは河川です。上下水道の普及は東京23区で一番遅く、子供のとき家の周囲を縦横無尽に用水が流れて、田んぼが多い景観の中をかけまわって遊んでいました。
小学校のときに恩師からかなりの影響をうけました。
恩師が3学期に3週間ほど学校を休んだことがあるのですが、のちに聞いたところ、社青同活動家として三里塚闘争に参加し、機動隊から暴行されてけがをしていたからだったそうです。
大学の入学式直後から部落解放運動に参加して人生がかわりました。部落差別によって抑圧されたものはそのまま抑圧されているのでは絶対になくて、石川一雄さんのように部落に生まれたことすら知らなかった人間を目覚めさせ、それに呼応して全国から集会に駆け付けた、無数の部落大衆のエネルギーを肌身で感じたのです。闘いはこういうところから拡大していくのだと思います。
大学を卒業後、駿台予備学校講師や法律事務所、大学生協に勤務後、ふたたび法律事務所で働いています。2012年からは、葛飾区で育った豊田正子の生活綴方作品・作家研究を継続し、国分一太郎「教育」と「文学」研究会に属しています。
部落解放運動のときの思いは今ももっておりますので、何とか地域の部落大衆と結びついていきたい気持ちがあるのですが、なかなかチャンスがありません。
※この記事は伝送便編集委員会編『伝送便』532号(2023年7月1日、Usay-net発行)より転載・一部改訂したものです。