アクロス・アメリカ【第十一章・ある記憶との闘い】―私は弱さを持った人間を探していた。どこかに自分と同じような人を探していたのよ―

ある記憶との闘い

ミシシッピ川を越えると、中部の広大な平原は影を潜め、緩やかな丘陵地帯がいくつも現れる。開拓者たちが切り開いた森が今も残り、その森が開けたところに大きな都市が点在している。アパラチア山脈のふもと、ケンタッキー州ルイビルに着く頃には夏も既に終わりを迎えていた。

ぼくは何日かぶりに柔らかなベッドで眠りたいと思い、この街にあったユースホステルに泊まろうと電話で予約を入れた。

電話をかけると女性が出た。声質から、年老いた女性だとわかった。ぼくは一人で旅をしていて、自転車を入れられる部屋を探していると手短に話した。

「あなた、うちに泊まりたいの?」

電話の向こうからそんな声が聞こえてくる。ホステルなのだから当たり前だろう、と訝った。間違い電話をしたのかと思ったほどだ。しかしホステルに着いてみるとその理由がわかった。

「うちではホステル以外にもいろいろやってるの」

紫色のカーディガンを着て白髪を後ろにまとめた老女が出てきて言った。彼女の名前はナタリー・ブーン。自宅をオフィスにいろいろなビジネスをしていて、ホステルはその一つにすぎないという。あらゆる顧客が一つの番号に連絡してくるため、ホステルの客なのかと確認したのだ。

部屋に入ってみると、そこはホステルというよりも自宅のガレージにいくつかの家具を置いて客に開放しているだけのもので、いかにも片手間で経営しているというふうに映った。ソファや布団も何年も使い続けて年季が入っているわりに、手入れがなされていない。客はぼく以外には一人もなく、いまどき十ドルという値段の理由がわかった気がした。

ガレージに荷物を入れ終えると同時に、彼女は部屋での過ごし方について説明を始めた。酒を飲むな、煙草を吸うな、ドラッグをやるな。簡潔に禁止事項を列挙するその言い方は、なんとなく神経質でこうるさい感じがした。何よりも宿を経営する人間特有の、ホスピタリティのようなものが感じられなかった。

そして彼女は最後に「荷解きが終わったら、二階で熱帯魚の水槽を掃除するから手伝ってほしい」と言い残してガレージを出て行った。来て早々、客に家事を手伝わせるなんて、やれやれだと思いながらぼくはソファにもたれかかった。

ところが、手元のホステルの案内をよく見ると『一泊十ドル、プラス清掃などの二十分ほどの簡単な雑用』と書いてある。水槽の掃除はこの雑用のことかと考え直すと、まあ仕方がないと思えてきた。

今までもときおり泊まった安いホステルでは、経費削減のためか毎朝宿泊者がキッチンやトイレの清掃を分担することがあった。そんな時、むしろ合理的な運営システムだと感心してしまったくらいなのだ。

それに、オンボロだと思っていたガレージも、そこに座ってじっとしているとなんとなく居心地がよく思えてきた。

ところどころ破けたソファや年代物のコンロやシンク。それらの古びた家具が、窓のないコンクリートの部屋でオレンジ色の裸電球にぼんやりと照らされている様子は、何となく子供の頃に夢想した秘密基地のようで、心地よい閉塞感があった。

「荷解きはもう済んだかしら。よかったら手伝って」

休んでいると彼女が降りてきて言うので、ぼくは手伝います、と言って彼女についてガレージの階段を上がっていった。途中、階段の壁に飾ってあったいくつかの写真を指差して彼女が言った。

「この写真は若い頃の私なの。キレイでしょ。今はこんなだけどね」

言いながら冗談っぽい笑みを浮かべた。そしてモノクロ写真の中の彼女は、確かにとても美人だった。二十代前半の、ぼくとほとんど変わらない年齢だ。大学の卒業写真か何かだろうか、ドレスアップして胸から上を撮ったものだった。もう何十年も前の写真でヘアスタイルは野暮ったかったが、何よりも前向きで野心に満ちたような微笑みが魅力的だった。ぼくは目の前の老女と写真の中の彼女の違いに驚いた。そして改めて写真を見て、かつてはたくさんの男性が彼女に言い寄ったのだろうな、と勝手な想像を巡らせた。

水槽には銀色や青紫のきれいな熱帯魚が何匹か泳いでいたが、何年も手入れをしていないのか、透明であるはずのガラスは水垢でずいぶんとくすんでいた。

「あなたが来てくれて助かったわ。一人では重い水槽を運べないもの」

ぼくらは水槽の両端を片方ずつ持ち、慎重に階下へと降ろしていった。玄関を出て庭のコンクリートに水槽を置くと、夕日が水面に乱反射してチラチラと踊った。庭先では夏の間に生い茂った草花がはかなげにそよいでいた。

「あなた、アメリカを横断しているんでしょう。楽しい?」

熱帯魚を小さな容器に移し替えながら彼女が聞いてきた。若い頃からアウトドアが大好きなのだと言う彼女も、同じようにサイクリングバッグを自転車に載せて山や森へ出かけるのだという。

ぼくは旅の経緯を補足するために、アメリカがやっている戦争に疑問を持っていることや募金を集めていることも話した。そしてこれまで道すがらインタビューをしてきた人々のことも。

「あら、面白い活動ね。私、そういうことをする若者が好きよ。私も昔からいろいろなことをやってきたわ」

彼女は「私も」と含みを持たせるように言った。いろいろとはどんなことだろう。ぼくは壁にかかった若い彼女の写真を見て、漠然と彼女が若い頃どんな女性だったのか知りたいと思っていた。

「私はね、ずっとソーシャルワーカーとして働いてきたの。この街で困った人があれば手助けにいくのよ」

ぼくはその話をもっと聞いてみたいと思った。この頃になるとぼくが人々と交わす会話のスタイルにも変化が出てきた。イラク戦争の直接的な賛否だけでなく、彼ら一人ひとりがいったいどういう人間なのかということが気になっていた。

ただ賛否を問うだけでなく、個々の意見の背後にある豊かな人格を照らすこと。そのことがそれぞれの意見を薄っぺらな情報ではなく、生身の人間による確かな意志であることを保証してくれる気がしていたからだ。

「生活に不自由を抱える人たちをサポートするのが仕事よ。だから人々が抱えている問題によって私たちの仕事が決まるのよ」彼女は自身の仕事を語る。

家族間の不和、移民、精神病、DV、ホームレスと多様なバックグラウンドを抱える人々をサポートするため、社会学や心理学、行動学といった専門知識を必要とするのだという。アメリカでは彼女のようなMSWと呼ばれる福祉系の有資格者が弁護士と同じくらいの存在感を持って、あらゆる人々の生活上の問題を解決しているのだそうだ。

彼女は大学院で社会福祉の修士号を取得した後、ソーシャルワーカーとしてキャリアをスタートし、企業のコンサルタント、カップルや夫婦のカウンセリング、精神的な疾患を持った人々へのセラピーなど様々な問題を抱える人たちと向き合ってきた。さらにそうした仕事以外にも、地域の人々を集めたワークショップやミーティングを開くという。

「ソーシャルワーカーのビジネスではお金が入ってくるけど、ビジネスではお金のない人々を助けることはできないの。そういう人のための無償の活動も定期的に行ってきたわ」

彼女の多様な活動の背後にあるのは弱者への共感だ。さらに彼女は続けた。

「彼らはお金がないからこそ様々な機会にめぐまれていないのよ。だからこそ最もサポートが必要なの。私はこの活動を通して、あらゆる人々の人権を守ることができたら、と思っているの。でも、それは終わりのない闘いのようなものね。どれだけ時間があっても足りないのよ」

時間が足りない。その言葉の向こうに彼女が相手にしているものの大きさが見えた気がした。ぼくはなんとなく水槽を洗う手伝いを面倒くさがっていた自分が恥ずかしく思えてきた。

そして彼女が好んで使う「闘う」という言葉。彼女は誰かの権利を擁護することを「守る」のではなく「闘う」と表現した。それはとても彼女らしい言葉だ。きっと彼女はあらゆる社会問題だけでなく、自分自身の年齢とさえ闘っているのかも知れない。

「そういえば、あそこにかかっている新聞記事もそうね。あれは私が大気汚染と闘っている、という記事よ」

彼女は庭先からリビングの窓越しに見える一枚の額縁を指差して言った。「よかったら見ていらっしゃい」と彼女が言うので、ぼくはリビングにその記事を見に行った。

壁にかかったその新聞記事には一枚の写真が載っていた。それは彼女がガスマスクのようなものをつけて自転車に乗っている写真だった。そばには『大気の汚染に抗議するナタリー・ブーン』というキャプションがつけられている。

それは緊張感に満ちた異様な写真に見えた。写真の彼女はタンクトップを着て肌の露出が多いのだが、そのガスマスクが頭部だけを過剰なまでに防衛している。彼女は生来肺を患っているのだろうか。しかしいくら大気汚染が深刻だからといって、ガスマスクをつけなければ自転車に乗ることもできないというのは聞いたことがない。あるいはガスマスクを着用することで問題の深刻さを訴えているのだろうか。いずれにせよその写真が放つ緊張が、彼女の言う「闘い」という言葉に繋がった気がした。

「大気汚染の前では、私たちの子孫を含むあらゆる生き物たちが弱者になるのよ」

彼女が来てぼくの隣で言った。その言葉を頭の中で何度か反芻するうちに、なぜかレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を思い出した。六十年代のアメリカで、初めて環境問題を訴えた女性生物学者。あるいは年老いてなお大気汚染に抗議する彼女の姿が、社会を変える大きな力となったレーチェル・カーソンに重なったのかも知れない。

「あなた、どうしてこんな活動しているの?」

水槽を磨きながら不意に彼女が言った。ぼくは答えに窮した。

「戦争を問いかける旅のことよ」

なぜだろう。ぼくが言葉を探していると、家の中で電話が鳴った。

「あなたのことも知りたいのよ」

彼女は微かに笑って小走りに家の中へ入る。一人になると「なぜ」という問いが宙ぶらりんになったように取り残された。これまでにもたくさんの人が同じ問いを発した。けれどもそれらをよく聞くと「なぜ」の意味はひとつとして同じではない。

それをやるどんな必然があったのか。なぜ善人ぶっているのか。なぜ日本人がわざわざアメリカまでやって来たのか。

その度にぼくの中にも無数のビコーズが増えていく。ぼくはその中から自分にとっても相手にとっても意味のあるものを選んで答えようと思った。

彼女が戻って来たとき、ぼくは人々が傷つけ合わないためにどうすればいいのか知りたいと思ったのだと答えた。彼女が小さく頷いた。

本当はぼくの中の「理由」はもっと混沌としていたけれど、英語でそれを彼女に伝えることはできなかった。これまでも別の人に同じことを何度も試みたが、自分でももやもやとした内面のことを英語で話そうとすると必ず不毛な結果に終わった。

ぼくは彼女のことをもっと聞いてみたいと思い、どうして人々の権利に興味を持ったのかと尋ねた。彼女は少し目を細め、やがて真剣な表情が口を開いた。

「私は若い頃、まだ十代の時に、父親に虐待を受けていたわ」

一瞬、彼女の言った意味が分からなかった。いや、わからないふりをした。それはぼくの反射的なクセのようなものだった。

「わかるでしょう。父はずっと私に性的な関係を迫っていたのよ」

重苦しい響き。つなぐ言葉を探せない。彼女は近親相姦という意味のincestという言葉を強調した。

「あの頃、そんなことは誰にも言えなかったわ。夜が来るのが怖かった。暗いベッドでただ泣いていたのよ」

彼女は躊躇せずに語る。けれども、それは年老いて性に固執することがなくなったためではない気がした。きっと長い年月の中でその事実に何度となく向き合ってきたからだと思った。風にそよいだ鼻先の後れ毛を耳にかけると、彼女は静かに続けた。

「私は弱さを持った人間を探していた。どこかに自分と同じような人を探していたのよ。そして大学に入った頃、何人かの人に出会ったわ。人種差別に悩んでいる人や足の不自由な人がいた。最初に会った時になぜかすぐに友達になれる気がしたの。そして実際その通りだった。彼らと話しているとなぜか安らかな気持ちになったり、勇気が沸いてくるような気がしたの」

彼女が話す間、ぼくはそのガラス細工のような記憶にしっかり寄り添おうと努めた。それが過去をしゃべらせた人間の義務であるような気がしたからだ。

「それからよ。私は弱い人間のために闘おうと思うようになっていったの」

その言葉はぼくにもわかる気がした。彼女が弱者のために闘うとき、きっと記憶の中のできごとと闘っているのだ。そして弱者をいたわることで弱すぎた過去の自分自身をいたわっているのだ。

ぼくは、階段にあった額縁の中の若い彼女の写真を思い出していた。そして彼女の身に起きた事実の重さと、あの写真の中の前向きな笑顔との間にある途方もない葛藤を想像した。そしてそれはそのまま目の前の老女の意思の確かさに繋がっている気がした。

ぼくは愚問と思いながらも、彼女のような人がイラク戦争についてどんな考えを持っているのか聞いてみたいと思った。

「反対よ。何も生み出さないわ。この国はずっと戦争をしてきたのよ。そして犠牲者を増やしてきたのよ」

疑問の余地なしという言い方だった。あるいはイラク戦争だけでなく、すべての戦争に反対しているように聞こえた。ベトナムも湾岸もアフガニスタンもイラクも彼女の中では全部同じことなのかも知れない。ぼくは試しに、と言ったら失礼だが、試しにイラク戦争を擁護する人の意見をぶつけてみた。

「ブッシュ大統領はイラクに自由を与えたと言う人もいますが」

彼女が少し苛立つ。

「自由は人から与えられる性質のものではないわ。アメリカがフセインを倒してもあの国は混乱したままよ。それを自由と言えるかしら」

ぼくは言葉に詰まった。

「自由というのは、自らの力であるべき姿に近づいていくことよ。イラクの人々がいつか自由を獲得するとしたら、それは彼らの手で彼らのあるべき国を作ったときよ。アメリカが簡単に与えられるものではないわ」

ぼくはその言葉に粛然となった。弱者の自由のために闘い続けようと決めた人が「自由は与えることができない」と言っている。それはどこまでも謙虚さの上に立った認識である気がした。ぼくは議論を煽った愚行を後悔するよりも、彼女の言葉の力強さに素直に感動していた。

彼女の言葉にはどこか哲学的な響きがあった。イラク戦争の話にしても、それが国際法違反であるというような、外部の基準を用いることがない。

きっと彼女は現実というものを一度自分の中のとても深いところに投げ入れて、内なる水準器のようなものに照らすのだろう。その結果出てきた言葉を慎重に繋いでいく。だから、彼女の言葉は観念的でありながら、どこまでも力強い。

ぼくは戦争をなくすために一般市民ができることは何かと尋ねてみた。

「募金を集めたり、議論を促すことは大切だわ。あなたは『できること』をやっているのよ」

しかし、ぼくは自分がやっていることがあまりにも小さいことで、これまでにも無力さを何度も感じたことがあった。そのことを正直に話してみた。

ずっと戦争をしてきたこの国の人は、それらの不条理やそこからくる無力さにどう向き合っているのか、ぼくはそのことを知りたいと思っていた。彼女はまた少し考えて、話し始める。

「この世界ではすべての命がとても小さな存在よ。私たちの行動はどれも小さなことでしかないわ。それはすべての人に与えられた条件よ。大切なのはあなたが自分の行動をどれだけ信じているかということよ。たった一ドルでも空腹の子供にとってとてもありがたいことであるはずよ。そのあとその子供が死のうが生き延びようが、そのありがたさは変わらないわ。規模の小ささを揶揄する人は、そのありがたさを想像できないのよ。まずは想像すること。そこから信じることが始まるのよ。そうしたら行動すればいいわ。そうして少しずつ世界が変わっていくのよ」

ぼくは彼女が話す間、背中や腕に鳥肌のようなものが立つのを感じた。英語を聞いてそんな風になるのは初めてだった。

一方、どこかでその言葉の重みをそのまま受け取ってはいけない気もしていた。それがなぜなのかと考えていたが、わからないまま彼女が続けた。

「あなたは若いから時間があるわ。何か行動を起こしたいならすこしずつ力をつけていきなさい。誰でもそうなのよ。それと自分が幸せになることを忘れてはいけないわ。あなたは今自分が感じている以上の幸せを他人に与えることはできないはずよ」

ぼくは彼女の言葉に黙って頷いていた。気がつくと、日が沈んで辺りは暗くなっていた。ぼくらは洗い終わった水槽に熱帯魚を戻すとそれを家の中に運び込み、元の場所に戻した。彼女が「ゆっくり休みなさい」と言って自分のオフィスに戻るとぼくは一人になった。

ぼくは水槽をぼんやりと眺めながら彼女が残してくれた言葉を反芻し、そこにあった一片の違和感が何であるのか、しばらく考えていた。それはたぶん言葉にするとこういうことだった。

彼女は、彼女自身が感じている不条理に全力で闘っていくと決め、実際にその通りに生きてきた。しかしそれで彼女が感じる不条理のすべてがなくなるわけではない。残された不条理から彼女自身を守っているものこそ、力強い言葉たちであるはずだ。

そしてそれは彼女が長年探しあぐねたからこそ彼女自身を支えうるのであって、ぼくがそれを安易に受け取ってはいけない気がしたのだ。

ピカピカに磨かれた熱帯魚の水槽に、エンゼルフィッシュやグッピーが泳いでいる。よく見るとそこに自分の姿もぼんやりと映っていた。それは未だ自分自身を支える言葉すら持たない、無防備な男の姿でもあった。

(つづく)

<目次>

【プロローグ】―なぜ戦争はなくならないのか―
【第一章・洗礼】―翌朝目が覚めると、さらに厳しい現実があった―
【第二章・ユダヤの眼差し】―「ユダヤもアラブもない。問題は人間のさがにある」―
【第三章・海辺の墓標】―怒りを訴えたいのか、悲しみを訴えたいのか―
【第四章・救命者の矛盾】―「自由を守るという物語に流されていったのよ」―
【第五章・渇きの果てに】―それらはあたかも暗い宇宙につつましく瞬く生命の輝きのようでさえあった―
【第六章・荒野の漂流者】―「日本でまた会おう」彼の言葉だけが耳の奥でリフレインしていた―
【第七章・逆境の中の生命線】―「闘いは嫌いだ。でも彼らをリスペクトしている」矛盾しているとぼくは思った―
【第八章・自由とは何か】―「自由万歳」を置き換えてみるとわりとよくわかる―
【第九章・オクラホマの風の中で】―彼女はこの場所でぼくと同じ歳で亡くなった―
【第十章・地図の上の1セントコイン】―それは戦争の是非を問うことと同じくらい大切なことに思えた―
【第十一章・ある記憶との闘い】―私は弱さを持った人間を探していた。どこかに自分と同じような人を探していたのよ―
【第十二章・シェルター】―ぼくは「彼ら」から逃げない人間になりたい―
【第十三章・マイノリティの居場所】―“There is no way to Peace,Peace is the way.A.J.Muste”―
【第十四章(最終章)・無限のざわめきの中へ】―その豊かさは残された救いのようでさえあった―

【著者プロフィール】
矢田 海里(やだ かいり) ライター・フォトグラファー。1980年、千葉県生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒。在学中、イラク戦争下のアメリカ合衆国を自転車横断しながら戦争の是非を問うプロジェクト“Across-America”を行い、この体験を文章にまとめたアクロス・アメリカを執筆。フィリピンのマニラのストリートに潜入し、子どもたちや娼婦たちの暮らしを見つめ、ルポルタージュを執筆中。東日本大震災発災直後に現地入り、ボランティアの傍ら現地の声を拾い始める。以降現地に居を構えながら取材を続ける。放送批評雑誌『GALAC』に「東北再生と放送メディア」を連載。冒険家やアスリートを紹介するサイト「ド級!」でエクストリーマーの一人に選ばれる。「不確かさと晴れやかさのあいだ」をテーマに人間の内面を描き続けている。

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