震災から7年。飯舘牛の血統を新天地・山武市で守り続ける畜産農家、小林将男さん

福島第一原発の事故で全村避難を余儀なくされた福島県飯舘村。村では畜産が盛んで、飯舘牛はブランド牛として名が知られていたが、多くの畜産農家が離村とともに廃業していった。

こうしたなか、飯舘牛の血統を受け継ぐ「までい牛」を千葉県山武市で育てているのが小林将男さん。山武市に移住して6年半、小林さんの今の思いを聞いた。

【取材・文:松林建(フリーライター・群馬南牧支局長)】

※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』179号(2018年2月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。

飯舘牛の血統を受け継ぐ170頭の肉牛を飼育

小林牧場は山武市の内陸部の畑に囲まれた、心地よい風が吹き抜ける場所にあった。牛舎は全部で5棟。飯舘牛の血統を受け継ぐ約170頭の黒毛和牛を、妻の多美江さんと二人で育てている。

牧場の一角にある事務所の壁には、視察や見学で牧場を訪れた方々の写真や感想、取材を受けた新聞記事の切り抜き、子どもや学生からの応援メッセージや手紙などが一面に張られていた。小林さんが大勢の人たちから応援されていることが伝わってくる。

小林さんは、昭和31年生まれの61歳。気さくで笑顔が絶えない人で、冗談を交えながら終始にこやかに応じてくれた。

飯舘村で生まれ育った小林さんは、学校卒業後に通信技術者の道を選択。福島市のコンピューターメーカーに就職し、電話回線やコンピューターの技術者として働くが、いずれ飯舘村に戻って畜産をしたいと思っていた。

平成元年、33歳の時に退職し、生まれ故郷の飯舘村にUターン、実家で肉牛の生産を始める。小林さんの実家では2~3頭の繁殖牛を飼育していて、牛の育て方は知っていた。では、なぜ最初から畜産の道を進まなかったのか?

「飯舘村で畜産を本格的に始めるには資金が必要だったからね。だから、まずは会社に勤めてお金をためようと思ったんだ。畜産は、冬の冷え込みが厳しい飯舘村でも一年を通じて仕事ができるからね。故郷で働くには、畜産しかなかったんだよ。当時は村も畜産を奨励していたからね」

飯舘村に戻って以来、小林さんは肉牛の飼育に専念。飼育数も、21年間で100頭近くまで増やした。それでも村では中規模クラス。大規模な農家では、何と500頭を超えていた。畜産農家数も震災前には228軒に増え、飯舘村にとって畜産は一大産業に育っていた。

「とにかく安全な食肉をつくることを心がけていたね。繁殖から一貫して育てるのは当たり前。飼料も業者から購入せず、耕作放棄地で牧草を育てていた。そのほうが安全で、コストも安く済んだからね」

飯舘牛の名に恥じない、安全でおいしい肉牛の飼育にこだわっていた小林さんを2011年春、東日本大震災と原発事故が襲った。

原発事故の避難指示を待たずに牛を移動

「震災の発生当時は自宅にいたんだ。初めて経験するものすごい揺れだったけど、幸いにも自宅は被害なし。私が愛用していたコップとトースターが壊れたくらいだね。マイコップが壊れたのはもったいなかったな」

ユーモアを交えつつ当時を振り返る小林さん。しかし、それからの生活は苦難を極めた。

「原発事故が起こって、国から全村避難指示が出たのが4月の中旬。でも私は、いずれ避難指示が出ると先読みして、事故の1週間後くらいから牛の移転先を探し始めたんだ。牛を守るのに必死だったからね。それで、宮城県の蔵王の牧場に空き牛舎があるという情報をいとこから聞くと、出荷が近かった20頭を急いで蔵王に運んだ。

蔵王は牛舎の規模が小さく、全部の牛を移すことはできなかったけど、ぜいたくは言えないからね。『電気や水道がないけど移すか?』といとこから言われ、『屋根さえあれば移す』と答えたのをよく覚えてるよ。結局、避難指示を待たずに牛を移動したのは、村で私だけだったね」

避難指示が出る前から牛の移転先を探した小林さんの決断と行動の速さに、何があっても牛を育て続けたいという信念を感じた。

『までい牛』の血統を絶やすまいと、困難を一つひとつ乗り越えてきた小林将男さん。

山武市の空き牛舎に140頭の牛を運搬

蔵王に一部の牛を移動した小林さんは、飼料と水を運搬するため、しばらくは飯舘村と蔵王を往復する日々を過ごした。その距離は約150キロメートル。時間と労力をかけて往復するなかで、小林さんは残りの牛の移転先も探さなければならなかった。

「まず蔵王に近い宮城から探し始めて、福島、岩手と探し回った。でも、約100頭もの牛を受け入れられる空き牛舎は少なかったし、見つかっても貸してくれなかったね。丸2カ月探したけど、断られ続けた。この時はつらかった。でも、福島の飯舘村から来る牛に牛舎を貸したら近隣から非難されるだろうから、仕方がないと思ったね。

ようやく5月中旬になって、福島県が畜産を続けたい農家に、牛舎移転候補地のリストを提供してくれた。その中にあったのが、山武市の牛舎。5年間という期限付きだったけど、すぐ決断して、6月から仲間の手も借りて牛を運んだんだ。しかも当時は、他の畜産農家の牛も引き受けていたから、牛も140頭に増えていた。

家畜専用トラックは1台に7~8頭しか載せられない。トラック数台で5往復はした。しかも、牛を移す山武市の空き牛舎には、電気や水道が引かれていなかったんだ。水道はすぐに工事をして牛が水を飲めるようにしたけど、電気はしばらくの間、発電機に頼らざるを得なかったね。とにかく、迷ったり悩んでいる暇は全くなかった。牛を無事に移すことしか頭になかったよ」

のんびりと日なたぼっこをする、小林牧場の牛さんたち。

両親を連れ、避難先を転々と移動

小林さんが牛の移転に苦心するなか、飯舘村の畜産農家は4月の避難指示を受け、畜産を続けるか廃業するかの選択を迫られていた。結果、継続を希望したのは、わずか20軒。残りは廃業し、飼っていた牛は市場で売られていった。

しかし、当時の畜産農家にとっては、牛よりも家族が大切。廃業の選択は決して責められないと小林さんは話す。

「仮設住宅ができるまでは、避難場所も自分で探して移るしか方法がなかったからね。自分たちが避難する場所もないのに、牛と一緒に移れる場所を探す余裕はないよ」

小林さんも、飯舘村に住む両親と村外に避難したが、避難先は転々と移動せざるを得なかった。

「最初に親戚の家を訪ねた後、栃木県佐野市の住宅、蔵王近くの住宅、村があっせんしてくれた福島県の沼尻温泉の旅館と、避難先を転々としたね。1カ所に長く滞在できればよかったけど、慣れない場所だし、周りの目もあるから、なかなかそうもいかなかったんだよ。特に、80歳を超えて足腰が弱った両親を移動させるのは本当につらかった。結局、避難指示は出ていても、一時は飯舘村の実家に戻るしかなかった。行く場所がないんだから」

8月になり、ようやく仮設住宅が福島市の松川に完成、小林さんは両親の住まいを確保できた。当時の苦労を淡々と語る小林さんの言葉の端々からは、切羽詰まっていた当時の心境と、やり切れない感情がにじみ出てくるようだった。

小林さんを激励するために、小泉進次郎さんも訪ねてきた。

畜産を続けるしかなかった

しかし、牛を移し、家族の住まいを確保できてからも、苦難の日々は続いた。宮城県産と福島県産の牛の飼料から、放射性物質が検出され、牛が出荷できなくなったのだ。

「出荷停止を聞いた時はがくぜんとしたね。牛舎の賃貸料とエサ代が月に200万円、修繕費も1300万くらいかかっていたからね。途方に暮れたけど、牛を置いて夜逃げはできないし、続けるしか道はなかった。

福島から牛を運んできたことは山武市でも知られていたから、風評被害にも遭った。だから、最初のうちは目立たないように生活していたんだ。心とお金の両方が苦しかったけど、われながらよく耐えたと思うよ」

そして2012年4月、千葉県の放射性物質の検査で安全が確認され、ようやく肉牛が出荷できるようになる。しかし、震災前の飯舘牛の値段では到底売れなかった。

「牛の場合、長く飼っていた場所が産地になるから、出荷できるといっても当時は福島産。競り値は震災前の半分以下だった。月に一回、2~3頭ずつ出荷したけど、もちろん赤字。東電からの補償金で何とか食いつないでいたんだ。飯舘牛のブランドが原発事故で簡単に壊れたと思うと、悲しかった」

畜産は牛舎やトラクターなど、何しろお金がかかる。飼料代もばかにならない。

小林さんが肉牛の出荷を再開して1年半。2013年の秋に、ようやく山武市で飼育した期間が飯舘より長くなり、「千葉県産黒毛和牛」として出荷できるようになった。しかし、千葉県産の牛は飯舘牛ほど高くは売れず、従来の4分の3程度の値段にしかならなかった。

2016年になって、和牛の値段が全国的に高騰し、やっと震災前の値段で売れるようになったという。

「までい牛」ブランドが千葉県に浸透

借りていた牧場の返却期限があと1年と迫る2016年6月、小林さんは市内に土地を購入。そこに新設された牧場への移転を果たした。

新牧舎は、国の復興交付金を活用して飯舘村が建築。土地探しには山武市も協力してくれた。小林さんは、補助は受けたが借り物ではない牧場で、牛を飼えるようになった。

移転から1年、牧場経営も軌道に乗り、月に2頭を安定して出荷するサイクルを確立できた。小林牧場の肉牛は飯館牛の血統を受け継ぐ「までい牛」または「山武和牛」という新ブランドで浸透しつつあり、現在、千葉県内で3店舗が「までい牛」を使った料理を提供している。

「牧場をここまで持ってくるには本当にいろいろな苦労があったし、やり切れない思いも何度もした。でも、牛を育てることで頭がいっぱいで他のことは考えなかったから、何とかやってこれたんじゃないかな。

福島から来たことでいろいろな評判も立てられたけど、見ず知らずの土地に来て不安だった私たちを、山武市の椎名千収市長さんや近所の住民の人たちが温かく迎えてくれたのは、涙が出るほどうれしかった。市の広報誌にも掲載されて、知らない人からも『頑張ってください』とよく言われるんだ。

親切な人もいて、朝、玄関先に野菜が置かれていることもある。特に市長さんには、牧場の土地探しを市議会で頼んでくれたり、地元の飲食店に『までい牛』を宣伝してくれたりと、本当にお世話になった。

飯館にいたころと比べて人との関わりが増えて、ご縁の大切さを心から感じている。だから、山武市の人たちには、『までい牛』で何とか恩返しをしたいと思っているんだ」

つらい話も笑い飛ばして明るく語る小林さん。しかし、言葉の端々からは、困難を一つひとつ乗り越え、どんな時でも諦めずに前を向いてきた自信と、畜産への強い愛情が感じられた。

小林さんの「までい牛」にほれ込んで、店の看板メニューにしている地元の食堂「まんまや」のご主人、山田さん。

「までい牛」の牛カツ定食がおススメの「まんまや」。

牛を育てるのは人

2017年3月、飯舘村では一部地域を除き、避難指示が解除された。住民も少しずつ戻り始め、飯舘牛の復活が期待されている。小林さんも、飯舘村に帰村したいと思っているのだろうか。

「今、2軒の畜産農家が飯舘に戻っているんだ。飯舘で牛の生産が再開できれば、ブランドも復活できると思うよ。飯舘は畜産しかないから、望みは持ちたいね」

昨年移転した今の牧場は、土地は購入したが牧舎は8年間のリース契約で、現在2年目。子どもがいない小林さんは、ここで飯舘牛の血統を守りつつ、自分の後継者を育てたいと考えている。

「今、私の頭の中には、飯舘牛の血統を守ることと、人を育てることの二つしかない。故郷の牛をここに連れてきた限りは血統を残したいし、何といっても、人が牛を育てるからね。飯舘に戻るかどうかは、その後で考えるよ」

今年の4月に、小林さんは若手社員を後継者として採用する予定だ。当人も牧場経営を希望していて、既に千葉県の農家で研修を済ませ、現在、山武市に移住する準備を進めている。小林さんは、毎月の出荷頭数を2頭から3頭に増やし、一人分の雇用を確保する考えだ。これまで奥さんと二人で切り盛りしてきた小林牧場に、新たな戦力が加わる。

(おわり)

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