茶畑ソーラーシェアリング事業 ─茶畑の上で太陽光発電事業!そんな取り組みを浜松の中山間地でNPO法人が始めました!─

【大島たまよ】 
磐田市生まれ。同市で高校まで育つ。東京の大学(文学部史学科考古学専攻)に進学し、卒業後インドへ渡る。約2年のインド滞在の後、東京とインドプラスアルファの二重生活。帰郷後は専門の考古学関係の仕事に従事すること十数年を経た後、数年前よりコミュニティ関連の仕事を始める。

そもそも、この茶畑ソーラーシェアリング事業とは?から話していきましょうか。

簡単に言えば、お茶畑の上に太陽光パネルを設置して、お茶の生産にプラスして発電事業で農家の増収益を図るというものです。

日本では2012年度から国が再生可能エネルギー事業の拡大推進を図るために、風や太陽光で発電された電力を一定期間買い取る制度(固定価格買取制度・FIT)を始めました。

この制度にいち早く参入していったのは、もともと資本力のある大企業でした。現在各地でソーラーパネルが目に付くようになったのは、このためです。

以前は荒れ地や斜面だった土地がキラキラしていますよね。これはこれでまた大きな問題を多数含んでいるのですが、ここではあえて触れません。

ただ日本のような有限で狭小な土地を、このようにパネルで埋め尽くしてしまっていいのだろうか、食料自給さえままならないのに生産可能な土地をつぶしてまですることなのだろうかという疑問がありました。

太陽光発電だけのためなら下は別のことに使って、屋根でもビルの屋上でも良いはずです。

畑でも日陰のほうがいい作物などを選べば、耕作地の上にパネルを付け、上で発電、下で農業生産するという一挙両得の方法だってあるだろうという発想でした。

世の中には同じようなことを考える人が数人はいるもので、私の場合は偶然にも大学でその仕組みを考えている教授と知り合うことができ、その教授の理論を実践する場所ということで取り組みが始まりました。

ただ、言葉では簡単に言えても、取り組み始めてから実際に事業化するまでには幾つもの高いハードルを越えなければいけませんでしたので、当初思っていたよりも長い道のりとなりました。

まず農家さんへの説得です。着想は良くても、自分たちの今の生活に大きな変化が生じるようなことは誰も望みません。

何よりも設備の費用が膨大なため、普通の暮らしの人たちに簡単に手が出せるものでもありません。

それらの課題を一つずつ丁寧に越えていっても、さらにその先に農水省のハードルもありました。

農水省としては、農業生産に影響の出ることに対しては許可をしません。

ましてや発電事業の収入が多くなり、農作物の生産がおろそかになってしまっては本末転倒です。そこで幾つものハードルが課せられました。

そもそもパネルを設置した土地は「農地」なのか「事業地」なのかという地目の問題です。

地目が変われば課税額も変わるため、農家にとっても死活問題です。事業地目の課税では、どんなに生産額を増やしても追い付きません。

かといって課税する側としては事業収入が生まれている土地を「農地」として優遇することはできません。

この問題は架設する脚の部分の土地だけを農地転用し、「事業地」地目とすることでクリアしました。

そして農地として活用を止めないことの条件として、前年度生産量よりも25%以上収穫量が減らないことと、今後3年以上農業生産を続けること(3年後に、もし発電設備の下の農地が生産を休止していた場合は、パネルを撤去し発電事業が続けられない)という条件を付けました。

このため農家には大きな覚悟が必要となります。

中山間地ではどこでも、農業生産の不振と耕作者の高齢化に伴い、農地の荒廃が目立ってきています。

発電事業の固定価格買取期間は20年間。誰もが、この長期にわたって生産を維持していけるかどうかも不安材料でした。

そこで一軒(一人)の農家に全負担をかけるのではなく、想いを共有する仲間で組織を作って将来的には農地耕作を続けられる後継者も育成しながら、山の持続可能な暮らしの構築を図ろうと、NPO法人を立ち上げました。

大島たまよさん。

仕組みとしては、NPO法人が発電設備を設置して発電事業を行い、農家には今までどおりの農業を続けてもらい、そこにNPO法人が農地耕作と設備の管理費として売電収入から何パーセントかを支払うというものです。

これならば発電事業に関して農家負担はなく、耕作者が変わっても農業を続ける限りはプラスアルファの収入の見込める農地となります。

また事業主がNPO法人のため、事業収益を、生産した農作物の六次産業化や販路拡大のための費用に充てることで、農家は生産に専念できます。

そうした利点を生かして、山暮らしや移住を希望する若者世代を対象に、後継者育成を図っていけるのではないかともくろんでいます。

何でこのようなことを始めようと思ったのか?とよく聞かれます。

どこから話し始めるのがよいのか……。

化石燃料が有限資材であり、既に先のないものであるとか、このままの人間の暮らしでは地球環境が危ないとか、人類は滅亡に向かっているとか、いろいろと危機的状況が叫ばれて久しいのですが、その割に状況はあまり動いていないように感じます。

「このままでいいのか?」という何かモヤモヤした気持ちは若いころからずっと抱いていたのですが、決定的に背中を押したのは、やはり6年前の東日本大震災でした。

それまでは、誰かが何かをしてくれるのを何となく待っていただけのようなところがありました。

でも、あの震災以降自分自身でもできることがあるのなら今すぐにでも自分から動かなければ駄目だと、強く思いました。

私の動きなど焼け石に水で、何の足しにもならず無駄なことなのかもしれないけれど、動ける可能性を自ら放棄して愚痴や文句ばかり言っていても何も事は起こらないと思ったのです。

何よりも次世代にこんな未来の描けない地球を残してはいけないと。大きなことですが。

もともと小学生のころから「毎日何万台も車を造っているんだ」と自慢げに話す自動車産業(当時は花形産業)に勤務する叔父に、「そんなにたくさん造って、乗る人がいるの?車で道が埋め尽くされて走れないんじゃないの?」と質問するような子どもでした。

右肩上がりの経済が疑いもなく世の中を良くすると信じて猛進していた昭和50~60年代、時代に逆行した考え方ですよね。

バブル時代も絶頂期はインドで暮らしていたので、かなり冷めた目で日本を見ていたように思います。

当時の日本はアメリカをしのいで経済発展国の頂点で、インドなど第三国を見下すような風潮がありましたが、私から言わせれば自国の食料ひとつ自給できない日本に比べれば、明日鎖国状態に陥っても全国民を養うだけの資源や生産力を持っているインドのほうがはるかに豊かな国に思えました。

そんな青年期が今に影響しているのでしょう。

で、循環型社会への転換が持続可能な未来社会を構築するためには必要だと。これは誰もが思うことですが。

ただこう言うと「江戸時代に戻るのか?」と言う人が必ずいます。

全国民が一致団結して、昔に戻ることが賛成ならば、江戸時代に戻っても私は平気ですが、まず現実的には無理でしょう。

何より現代の快適すぎる生活に慣れてしまった日本人には、なおさらです。

では何から手を付ければいいのか?

私は資源の少ない日本が95%超を輸入に頼っているエネルギー問題ではないかと考えたのです。

「自然に戻ろう」とか「環境に悪い行為はやめよう」とか言っていても始まりません。エネルギー消費量をいかに抑えるかは私たちにも今すぐにでも取り組めること。

大手企業は一般国民にその行為を強いるのではなく、エコ家電や省エネ製品を技術力で推進しています。それはそれで大変有意義な行為です。

そして自社製品を消費してもらうことで新たな需要と消費拡大を目指しています。

でも、この図式は今までの消費・エネルギー浪費社会と一向に変わらない発想であり、構造ではないでしょうか?

個々のわれわれがいつまでも受け身でいる限りは、この社会構造は変わりません。

けれど、仕組みや方法が分からないから皆怖いと思っている。ならば中身を見てやろうではないか!と。

そんな時、経済産業省で「再生可能エネルギーを使った事業構想」を推進しようと「まちエネ大学」という取り組みが始められました。

政府の動向を知るのには最適な環境ではないかと、早速応募。無事に採用されて一年間東京に通うことになったのですが、ふたを開けてみてビックリです。

私のような素人(ましてや女性は)はほとんどおらず、既に何らかのエネルギー関係で仕事をしている企業や事業主ばかりで、実際ついてゆけるかと不安になりました。

しかしエネルギー問題は、ひいては経済問題。これは家庭の台所を担う一家の主婦の最重要問題でもあります。

私のような一般主婦の意見が新鮮だったらしく、五人の代表の中に選ばれてしまいました。

そのおかげで今の活動につながる人脈や経産省とのパイプもでき、今は飛び込んで正解だったとつくづく思います。

普通の主婦の感覚で始めたソーラーシェアリング事業。

この「まちエネ大学」で私が提案した事業が、今回実現に至った「茶畑ソーラーシェアリング事業」です。

日本は資源の乏しい国と言われていますが、再生可能エネルギーという視点から捉えてみると(都市部は不毛の土地ですが)人々が見捨てつつある地方の中山間地域は、まさに資源の山でした!

その資源を活用して、単に経済効率だけを追求する売電事業をするのではなく、制度を生かした売電事業に山の暮らしの再生を託す仕組みを乗せて、地域社会が潤う構造を作ってみようと思ったのです。

事業プランを練り上げてゆく中では、専門家の方々から幾つもの駄目出しや見直しを迫られることもありましたが、私の描く夢のような絵空事を一笑に付すことなく、現実的な事業に落とし込んでいっていただけたことも大変貴重な経験でした。

現実化のためには、「まちエネ大学」で練り込んだ事業プランを、次年度の経済産業省の補助金事業の研究費を頂いてもう一段階具体化していった工程もあります。

この工程で、実際に太陽光発電設備を設置した場合のシミュレーション(浜松は年間日照時間が日本一という強み)ができ、農家や金融機関へのより強い説得材料にもなりました。

茶の木が太陽光パネルと相性が良いことも幸いしました。もともと茶木は杉などの高樹木の下や周辺環境に育つ低樹木で、半日陰の環境が育成に適しているのです。

現在よく見る炎天下にさらされている環境だと、葉は固くなり害虫も付きやすく、茶木には良くありません。

本来の育成環境に近づけてあげることで、木のストレスも軽減し、上級な茶葉の生産につながります。

飲料の簡便化(ペットボトル飲料の凌駕)によって、煎茶の需要が落ちているのも茶農家にとっては悩みの種でした。

世界的にブームになりつつある抹茶の生産は、需要に供給が追い付いていないのが現状ですが、抹茶生産のために一定期間、茶木に被膜を掛ける作業は重労働で、人手も少なく高齢化も進むなか、簡単には切り替えられない現状がありました。

ソーラーパネルの架設台は、この被膜の作業の簡素化にも一役買いました。

もともと抹茶の被膜のために支柱を設置する農家もありましたが、この支柱の設置代金が高額で容易には踏み出せないところでした。

そんな農家の現状を耳にしたため、ならばその支柱の上にパネルを付けて、上でも稼ぎ、下でも稼げるのではないかと気が付いたのです。

実際、始めてみると(まだ少し課題は残りますが)パネルの支柱はそのまま被膜用の支柱となり、パネル下の茶葉の育成は何もない場所の茶葉よりも3割以上伸びが良く、色艶も抜群で柔らかく理想的な茶葉が育ちました。

生産量が落ち込むどころか、じかに被膜していたころよりも良質な茶葉が増産されるという、うれしい結果になったのです。

おまけに年間を通じて茶木を覆うパネルは冬季の霜よけにもなり、利点だらけです。

パネルの下の茶葉は、何もないところより3割以上も成長が良かった。

現在の暮らしの中で経済とエネルギーは必要です。忌避して生きてはいけません。

「経済無き道徳は寝言である」と二宮尊徳翁も言っているように、いくら口で立派なことを言っても、生きてゆけなければ何にもなりません。

もちろん、ここに至るまでは自分でもたくさん勉強はしました。でも、全て自分のためになることですから、進んでよかった道だと思っています。

それに、エネルギーの専門家が始めた事業より、普通の主婦が始めた事業のほうがハードルは下がりませんか?あんな人でもできたんだからと。

そういう次の挑戦者が出てくることも、少しは期待しているのです。

(おわり)

※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』178号(2017年12月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。

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