地方の中小都市の商店街といえば、シャッター通りを連想してしまいがちだが、どこもかしこも寂れているはずがない。全国を見渡せば、元気いっぱいの商店街の一つや二つは見つかるに違いない。
そう思って探し回り、たどり着いたのが長野県佐久市にある岩村田(いわむらだ)本町商店街(以下、岩村田商店街)である。
同商店街は会員制の「子育て村」で子育て家族を支援し、商店街直営の「岩村田寺子屋塾」で子どもたちの学習の手助けをする。起業家を育てるための「本町手仕事村」もあれば、高校生に販売の機会を与える「高校生チャレンジショップ」もある。
地域が求めるものにこたえ、地域とともにある商店街は元気を保てるという見本だが、ここでも新たな課題に直面している。
【ジャーナリスト 松本克夫】
『かがり火』の記事は、各地の支局長からの情報が基になったものが多いのだが、今回はちょっと事情が違った。取材を始めてから、佐久市在住の「誕生日の丘」支局長の加瀬清志さんが岩村田商店街の活性化に一役買っていたことがわかったのである。
しかも、加瀬さんは、2012年に出版した『日本でいちばん元気な商店街』(ほおずき書籍㈱刊)という本で、岩村田商店街の復活の記録を残していた。というわけで、以下は加瀬さんの記録と最近の取材の合作である。
「下克上」で全国一若い商店街振興組合誕生
もともと中山道22番目の宿場町としてにぎわっていた岩村田商店街が「黒船来襲」にあわてたのは、平成10年の長野冬季オリンピック前後である。
オリンピックを前に、郊外の農地に長野新幹線の佐久平駅や上信越自動車道の佐久インターチェンジが出現した。当然ながら、大型店は新たな高速交通の要衝に目を付ける。
実際、後にジャスコ(現イオン)などの大型店が岩村田商店街から1キロメートルの場所に進出した。同商店街をう回してつくられたバイパスが国道になり、宿場町の旧中山道は国道から県道に格下げになった。
危機感を抱いたのは、現在も岩村田本町商店街振興組合の代表理事を務める阿部眞一さん(58)ら若手経営者たちである。老舗菓子店を営む阿部さんは、
「跡取り息子たちは、よそで5年ほど修業して帰って来ましたが、どこでも既存店の衰退を目の当たりにしてきました。このまちも同じようになることが推測されました。既存の商店街協同組合は思い出話しかしていないし、まさにゆでガエル状態でした」
と当時を振り返る。
青年たちは、「これは下克上を起こさないと駄目だ」と決意し、組合の幹部たちに退陣を迫った。幹部たちは、「若手は生意気だ」といきり立つものの、「反論するものは何もないというありさま」で、最後は若手に譲るしかなかった。
こうして、平成8年に理事の平均年齢36.7歳という全国でも一番若い商店街振興組合が誕生した。
日本一イベントで話題に
企画力と行動力に溢れていた若手のリーダーたちは、その力をイベントに注いだ。このころ、市や商工会議所は繰り返し活性化セミナーを開催しており、入れ代わり立ち代わりコンサルタントが指導に訪れていた。
「イベントで元気さをアピールすれば商店街は活性化する」と刷り込まれたリーダーたちは、東京から移住していた放送作家の加瀬清志さんと一緒に、どういうイベントをしたらいいか知恵を絞った。その結果、岩村田商店街の長さが二百数十メートルあることを生かして、日本一長いものを作ろうということになった。
最初が平成8年の「日本一長い草もちを作ろう大作戦」。
草もち製造機から絞り出される草もちを並んだ人たちが手で送り合い、1本の長い草もちを完成させるというものだ。
続けて、「日本一すご~いあさまに乗ったおいなりさんを作ろう大作戦」「日本一長い百人一首の巻物を作ろう大作戦」などの日本一イベントを恒例行事のように6年間開催した。
テレビや新聞にも取り上げられ、毎回3千~6千人を集めるなど宣伝効果や集客効果は抜群だったが、残念ながら店の売り上げには結び付かなかった。
阿部さんによると、「30~50年前ならイベントをすれば店は黒山の人だかりでしたが、もう商店街のイベントは楽しいが、買い物はイオンでというパターンに変わっていました。接客する店の側が変化に対応できていませんでした。イベントをするのは店主たちですから、店はもぬけの殻でした」。
イベントに熱中している間に、商店街は空洞化が進み、気が付いたら42店舗中15店舗が空き店舗という惨状だった。
商店街は2度目の方向転換を迫られることになる。
地域密着顧客創造型という理念を掲げて
若手のリーダーたちは根本から考え直そうと、1年半にわたって毎月1回の勉強会を重ねた。徹夜で議論するから、1泊2日の勉強会が事実上ゼロ泊2日になった。そこでは、活性化する商店街とはそもそも何かを議論した。
結論の一つは、個店の魅力化である。
「一店一店が、お客様が来てくれる魅力のある店でなければならない。きらりと光るものがある店の集合体が魂のある商店街ではないか。社長の息子は社長にはなれるが、経営者にはなれない。もっと経営を勉強しなければならない。そう考えました」
と阿部さんはいう。
もう一つは、商店街とは何かという問いへの答え探しである。
阿部さんは、「突き詰めていくと、商店街は誰のためにあるかに行き着きます。私たちは、商店街を中心にしてまちがあると思っていました。商店街があって、そこに移り住む人もいると。しかし、商店街はお客様のためにあると気が付きました。まちという畑があって、そこに植えられた店という野菜が育つ。野菜がよく育つには、土が肥えていなければならない。つまり、安定した人口がなければならない」という結論に行き着いたという。
そこで、「地域密着顧客創造型」の商店街という理念を定めて、出直すことにした。「お客様のためにある」商店街である。地域と「ともに働く、暮らす、生きる商店街」という事業基準も定めた。イオンなどの大型店とは違う商店街の強みも再確認した。
「右手にソロバン、左手にコミュニティの担い手が商店街の強みだと確信しました。商店街は地域住民への社会的な貢献をする責務があります。安心と安全、福祉と環境、高齢者と子育てをともに考えることができるし、歴史の伝承が備わっているのが商店街の強みです。イオンにはないものです」
コミュニティのための空き店舗対策
同商店街は平成14年から空き店舗対策に取り組んだ。「やみくもにやるのではなく、理念に沿っているかどうかを基準に」した。
最初に設けたのが、コミュニティスペース「おいでなん処」である。商店街の真ん中にある、古くからの呉服商の蔵造りの建物を借りることにした。
「おいでなんしょ」は「おいでください」を意味する地元の方言である。会議や研修会、サークル活動、展示会などに幅広く使える拠点ができた。買い物に訪れた人が一休みするのにも都合がいい。
翌年、空き店舗を活用して開業したのが「本町おかず市場」。商店街直営の総菜店である。
岩村田商店街の入り口付近にあったスーパーの西友が撤退した後、商店街には生鮮食品の店がなくなっていた。お客に対するアンケート調査でも、野菜、肉、魚の生鮮3品の店がほしいという要望が多かった。
そこで、「おいでなん処」を使って、試験的に販売してみたが、「すぐに食べられるおかずがあると便利なんだけど」という声もあり、常設の総菜店に方針転換した。メニュー作りなどは商店街のおかみさん会が中心になった。
平成16年には、空き店舗の一つを使って、「本町手仕事村」を開設した。起業を目指す人たちのためのインキュベーター施設である。
2.5坪のスペースを6区画設け、1区画当たり月1万5000円で起業家を募集した。「手仕事村」としたのは、この商店街は商品を手作りしている店が多く、手に技を持った人に来てもらいたいと考えたからだ。
多数の応募者の中から6名を選んだ。その後、出店者はしばしば入れ替わったが、「手仕事村」を卒業して、商店街に新たに出店したケースもある。オリジナルジュエリーの工房、フォトスタジオ、リラクセーションサロンなどの店で、空き店舗解消に役立っている。
空き店舗活用でいいアイデアが生まれても、大家さんが貸してくれなければ、手が出せない。商店街振興組合は、「大家さんサミット」を開いて協力を求めた。「シャッターを閉めた店主は、表からは出入りしにくくなって、商店街の仲間と交流をしなくなります」という事情に配慮したものだ。
大家さんたちを集めて振興組合の事業計画を説明してから、コミュニケーションが取りやすくなった。空き店舗を借りたいというやる気のある若手を引き合わせると、理解のある大家さんは家賃を引き下げてくれた。
こうした対策の効果で空き店舗は減少してきたが、阿部さんは、「空き店舗は一つつぶすと一つ現れる。モグラたたきのようなものです」という。対策に終わりはない。
子育てと学習を支援する
空き店舗対策に続き、子育て支援に乗り出した。子育ての悩みを訴える家庭が多かったからだ。平成19年に洋品店を営む森泉美代子さんを村長にした、会員制の「子育て村」がスタートした。
18歳未満の子どもを持つ世帯なら無料で入会できる。会員になると、店ごとにさまざまな割引制度があり、年間13~15回くらい開催するもちつき大会や魚釣り大会などのイベントに親子で参加できる。会員は1500世帯余りだが、親子ともども人のつながりができるのがいいところだ。
イベントを開催するたびに、参加者にアンケート調査をしている。それが次の商店街の活動のヒントになる。こういうことをやりたいがどうかと投げかける提案型のアンケートで、反応がいいと実行に移す。
そこから生まれたのが「子育てお助け村」。まち中に設けた託児とサロン、育児相談を兼ねた施設である。
平成20年に開設した「岩村田寺子屋塾」も会員からの要望にこたえたものだ。
阿部さんは、「信州は寺子屋の数が一番多かった地域です。この辺にも三つの寺があり、寺子屋で運動会をしたという記録も残っています。親が一番心配しているのは教育ですから、商店街として昔の寺子屋を再現することにしました。偏差値を上げるための学習塾はすでにいっぱいありますから、小学生と中学生が一緒に机を並べ、中学生が小学生の面倒を見るような塾にしました」と狙いを説明する。
「寺子屋塾」の開設には、現在塾長を務める細川保英さん(62)との出会いが大きい。
細川さんは、岐阜県大垣市出身だが、昭和57年に大阪で学習塾を始めた。その全国展開を進める中で、平成4年に佐久市に教室を開いた。
細川さんは、「私は進学塾の運営に30年以上携わり、43教室くらい開きましたが、理念が浅いままでした。佐久に初めて来たころは、大家族の子どもたちが多く、伸び伸びしていましたが、新幹線が通るころを境に、核家族化が進みました。これはやり直さないといけない、もっと地域と連携した塾をやりたい」と思い始めていたから、阿部さんとも意気投合した。
岩村田の辺は、7月の祇園祭りとなると各区が子ども神輿を出す。細川さんは、「非常にいい風習です。学校と商店街ががっちりタッグを組んでいます」と評価する。
「こうした町のよさをインプットして、将来ここに帰ってくる子どもを育てたい」というのが細川さんの願いである。
「寺子屋塾」は「地域で子どもを育てる」ことにより、学力だけでなく、きちんとあいさつができる「人間力」を身につけさせる塾を目指している。
塾生は120人ほどだが、小中学生だけではない。「寺子屋塾」は通信制の鹿島学園高校のサポート校もしているから、高校生もやって来る。年も学力も個人差があるから、一斉の授業はできない。昔の寺子屋風景そのままに、それぞれの子どもに応じた学習になる。
細川さんは、今では商店街振興組合の総務理事も務め、まちづくりの担い手でもある。「よそ者の方がものをいいやすいという利点もあります」というが、もはや岩村田に土着したようなものだ。
高校生を巻き込む
岩村田商店街の取り組みは多彩で、とても全部は紹介し切れない。後は、高校生との協力関係についてだけ触れておこう。
学校統合される前は、佐久市内には高校が8校もあった。商店街はその高校生たちを引き入れようと考えた。
まず飲食で引き付けることが必要と考えて、商店街振興組合直営の食堂を出すことにした。本通りから横丁に入ったところに裁判所の官舎として使われていた民家が空き家になっていたので、それを使うことにした。
店の名は、高校生が後々懐かしく思い出すように、「三月九日青春食堂」にした。夜は居酒屋風にするので、名称も「九月九日ふくろう亭」に変わる。いずれも名付け親はコピーライターでもある加瀬さんである。
地元産の米粉を使ったうどんが「青春食堂」の看板メニューだが、メニュー作りには高校生も関わっている。
地元の高校との本格的な共同事業は、「高校生チャレンジショップ」である。空き店舗を活用して、高校生が自分たちで栽培した農産物や製作したインテリア小物などを自分たちで販売する場である。
高校生に就業体験をさせる場としては絶好だが、細川さんによると、チャレンジショップの実現には7年もかかった。教師が引率しなければならないといった面倒があるため、なかなか学校側が商店街の提案に応じてくれなかったのである。
しかし、「今は統合してできた佐久平総合技術高校にはチャレンジショップ部ができています」というから、部活として定着したといっていい。
生活が完結するまちへ
阿部さんは、全国商店街振興組合連合会副理事長も務める。商店街の衰退に歯止めをかけなければならない重い役目である。
阿部さんは、「商店街の衰退には三つの原因があります。一つは店主の後継者不足です。二つ目は、魅力ある商品のある店にする仕方がわからないし、もう疲れた、面倒だというものです。三つ目は、店舗の老朽化です。ここをどうするか。エリアの人口に見合ったダウンサイジングをしていかなければなりません。それは中心部に移り住んでくる人たちと一緒にやらないといけません」と指摘する。
衰退するのは商店街だけではない。阿部さんは、「アメリカでは、郊外のショッピングモールが次々に廃虚になっているし、いずれ大型店も衰退します」と見ている。
商店街、大型店とも衰退していったら、その先はどうなるか。
「年を取って、自分では車を運転できなくなった人は中心部に住み、歩いて買い物をするスタイルに戻っていくでしょう」と予想する。それに備えなければならない。岩村田商店街も、3度目の方向転換を迫られている。
阿部さんは、「ここまでいろいろ手を打ってきましたが、もう限界です。各店は間口が狭く、奥に長いウナギの寝床のような構造になっています。ここに、高齢者のマンション、病院、温浴施設などを整備して、ここで生活が完結するようなまちにしなければなりません。自給自足の循環型のまちがいいのではないでしょうか。マルシェがあったりして、心をくすぐるような回遊ができる、こじゃれたまちができると面白い」と新たなまちの構想を描く。
それには、中心部に人口を集めなければならないし、まちの大改造が必要になる。もう商店街単独でやれる範囲を超えるから、これからは「行政、住民、事業主が連携しなければなりません」となる。
阿部さんは、商店街も「土地の権利と使用の分離が必要」だという。所有と経営を分離して、新たに設立するまちづくり会社がまちの経営を請け負うという形だろう。各店は、「後継者を確保するのではなく、起業したい人を誘致することになります」。
細川さんも、「今はこの町は変革の時期に来ています。変革には10年くらいかかるでしょう」と見る。
商店街としてやれることはほとんどやり尽くした感のある岩村田商店街でさえ、大胆な変身を迫られている。
この先も持続可能なまちにするためには、立ち止まってはいられないとしたら、すでに長らく立ち止まったままの商店街は一体どうなるものやらと思いやられたものだった。
(おわり)
※この記事は、雑誌『かがり火』181号(2018年6月25日発行)に掲載された内容を、WEB版用に若干修正したものです。