【連載 イタリア支局長だより】第8話 郷土の祭り「ジョストラ・デラ・クインターナ」

 私の出身地熊本では、肥後の馬追いと呼ばれる藤崎宮例大祭が、毎年開催されている。馬の後ろを楽団と勢子が踊りながら追いかけるという祭りだ。ところ変わって、私が住むイタリア中部の小さな街フォリーニョでも、馬にまつわる祭りが開催されている。「ジョストラ・デラ・クインターナ(地元民の略称は「クインターナ」)」だ。この祭りに30年以上情熱を注いでいる元太鼓隊隊長のアレッサンドロに、祭りの歴史と魅力について話を聞いた。

クインターナの話を聞いたアレッサンドロ氏

部落同士の争いを防ぐため祭りを開始

祭りの発祥は1613年まで遡る。当時のフォリーニョはとても裕福な街で、貴族が治める20の部落に分かれていたそうだ。部落同士の争いが激しさを増すのを防ぐため、地元の司教が提案したのがクインターナ。争いの代わりに馬を使った競技を行い、そこで決着をつけるという提案だった。かつてフォリーニョにあった古代ローマの軍事防衛拠点カストラの5番目の通り(クインタ・ヴィア)が軍の演習場所に通じていたことから、クインターナと命名された。当時のフォリーニョはローマ帝国の支配下にあり、ローマとアドリア海沿いのリミニを結ぶフラミニア街道の中継地点として重要な役割を果たしていたのだ。

競技の内容は、ローマ神話に出てくる戦と農耕の神「マールス」の銅像をグラウンドの真ん中に設置し、馬に乗った騎士がその目、鼻、口を投げ槍で攻撃して点を稼ぐというもの。最初のクインターナは、クローチェ・ビアンカ(白十字)地区が勝利を収めた。その後90年間近く続いたが、フォリーニョで一番有力な貴族であったトリンチ家が崩壊したこと、隣県のペルージャから攻撃を受けてクインターナを開催する財源と人手が足りなくなってしまったことを背景に、1699年には開催が途絶えてしまう。 

戦後にルールを変えて祭りが復活

それから時は経ち、第二次世界大戦後の1946年、地元の司教ルイージ・ファローチ・プリニャーニと学者エミリオ・デ・パスクワーレの呼びかけで、クインターナが復活した。ファシストや共産主義者などの政治的派閥の争いを避けるためだ。ただ、祭りの再開には問題があった。若い男手が戦死したかフォリーニョを去っていて、十分な人手が集まらない。競技用の馬も戦時中に食料としていたため、ほとんど残っていない。そこで、他県に応援を呼びかけて再開が図られた。再開後の最初のクインターナで騎士を務めたのは、フォリーニョ市民ではなく、北イタリアの連帯ランチェリ・ディ・モンテベッロの兵士であった。ただ、兵士が前のルールで競技をすると勢い余ってケガをする恐れがあるので、新ルールが設けられた。

まず、当時は直線だったコースを8の字のコースにした。これは、兵士が軍隊の訓練で8の字のコースに慣れていたためだ。そして、銅像に持たせたリングを槍の矛先で取ることに変えた。リングの大きさは現在のルールで1ラウンド目は直径6cm、2ラウンド目は直径5.5cm、3ラウンド目は直径5cmと、徐々に取るのが難しくなっていく。ラップタイムを競うが、リングを取ることができなければ失格となる。コーナーフラッグに触れた場合も失格。時速40~50kmで走る馬に乗って、1ミリのミスも侵さずに小さなリングを取るのは至難の業だ。1年間この日のために訓練を続けても、わずか10秒で終わってしまうことすらある。それだけシビアな真剣勝負なのだ。

1946年に10地区の編成で再開してから、クインターナは一度も中止になったことがない。コロナ禍でも競技が行われた。以前は9月の第2週と第3週に2回競技が行われていたが、馬の肉体に負担がかかり鎮痛剤を投与せざるを得ないので、今は期間をあけて6月に1回、9月に1回競技が行われている。使用される馬の品種は、サラブレッドだ。騎士は2年間の特別訓練を受け、馬も調教するのに1~2年ほどかかるそうだ。

銅像に持たせたリングを槍の矛先で取りにいく競技参加者

 1600年代のメニューを再現したタベルナ

ここまで競技内容を中心に述べてきたが、クインターナの魅力はそれだけではない。祭りが始まる2週間前から、市内10地区の拠点ごとに「タベルナ」と呼ばれる酒場がオープンする。地元民は酒場と呼んでいるが、レストランと言った方がいいだろう。タベルナがオープンしたのは1975年のこと。アレッサンドロが所属する地区「ジョッティ」と、もう1つの地区「カッセロ」が先駆者となったそうだ。今では10地区すべてが祭りの2週間からタベルナを運営している。どのタベルナも築何百年もする歴史的建造物を使用し、そこが各地区の集合場所にもなっている。

このタベルナでは、1600年代のバロック時代に食べられていたメニューを再現している。豆の煮物やグリルしたお肉などもある。ウェイターは皆ボランティアで、バロック時代の衣装を身にまとっている。だからタベルナにいると、まるで過去にタイムスリップしたような気分になる。ジョッティのタベルナは、昔の酒場の跡地を利用しているそうだ。フォリーニョで製造された貨幣を運搬する人々がこの酒場で夜を過ごし、翌日に貨幣を届けに出かけていたそうだ。アレッサンドロいわく、各地区には300人近くのボランティアがいるとのこと。市民がそれだけ祭りに情熱を注いでいる証拠だ。祭りでお金をもらうのは、馬に乗る騎士とタベルナの料理長2人だけだそうだ。

歴史的建造物を使用した「タベルナ」

 音楽隊と衣装の催し物も魅力

この他にもクインターナの魅力はある。音楽隊だ。1600年代に使用されていた太鼓を再現した太鼓隊は、祭りの雰囲気を盛り上げてくれる。アレッサンドロいわく、太鼓のチューニングは和太鼓に似ているそうだ。タベルナが開いているクインターナ開催前の2週間は、いたるところで太鼓の音が聞こえてくる。この音楽隊とタベルナも、コンテスト形式で競い合う。

太鼓隊

さらに祭りの前日には、「スフィラータ」と呼ばれる催し物がある。これは、10地区全部の音楽隊とバロック時代の衣装に身を包んだ人々が、街中を太鼓の音に合わせて行進するのだ。衣装はすべて手作りで、絵画やフレスコ画に描かれたものを参考にデザインするらしい。かかる費用は1000ユーロ前後(15万円前後)から、高いものは12000ユーロ(180万円前後)にのぼるものもあるらしい。衣装ひとつにしても、祭りに対する市民の情熱が感じられる。

 バロック時代の衣装に身を包んだ人々が街中を行進する「スフィラータ」

なお、アレッサンドロの属する地区「ジョッティ」は、タベルナの上の階をクインターナの博物館にしている。博物館にしなければ約160席分ほどの客席を確保できるが、タベルナの売上を減らしてでも祭りの歴史を市民に伝えたいのだ。博物館には祭りにまつわる資料や衣装のほか、地元アーティストの作品も展示される。

クインターナの博物館

クインターナは祭りではなく文化

アレッサンドロはインタビューの中で、みんなと一緒にいる時間、歴史を共有する時間がいかに大切かを熱弁していた。真の勝利は競技に勝つことではなく、みんなで夢を追うことだと。クインターナは単なるお祭りではなく文化だと、彼は胸を張って語る。彼の祖母が名付けた「プッジョ」(フォリーニョ方言の「可愛い坊や」という意味)というニックネームでみんなから親しまれているアレッサンドロ。ちょうど私がインタビューをしている時も、他の地区のボランティアの若者たちが、彼にクインターナの歴史を尋ねに訪れていた。周囲にとって彼は、クインターナ博士のような存在なのである。彼のような熱血的な信者がいるから、こうした歴史や伝統が受け継がれているのだ。

このような歴史的なお祭りが開催される街に住んでいて、私も誇り高い気持ちになる。

(イタリア フォリーニョ支局長 ジョー)

アレッサンドロ氏(右)とジョー氏