《ひきポス×かがり火コラボ企画》【ひきこもりと地方】岩手県釜石市 女性ひきこもり経験者 土橋詩歩さんインタビュー「あの履歴書はもう二度と見ることはない」

こんにちは、かがり火WEB編集部です。

突然ですが、『ひきポス』というメディアをご存知でしょうか。

『ひきポス』は、ひきこもりや生きづらさの問題を、当事者の目線から取り上げる情報発信メディア。冊子とWEBで展開中で、目にしたことのある方も多いかもしれません。

冊子版『ひきポス』第2号・特集「こうして人とつながった」

そして今回、『ひきポス』×『かがり火』のコラボ企画が実現。

『ひきポス』の記事を「かがり火WEB」でご紹介させていただきます!

しかしなぜ、『ひきポス』と『かがり火』なのか?

ひとつのきっかけは、『ひきポス』の「ひきこもりと地方」をテーマにした連載記事。地方のひきこもりのリアルを、当事者へのインタビューを通して発信しています。一方で、その「地方」を得意分野とする『かがり火』でも、ひきこもりがテーマとなる記事が少しずつ増えてきています。

さらに、両誌の編集部のメンバーがたまたま知り合いだったこともあり、「せっかくだから、得意分野の重なるところで、何か一緒にできないだろうか?」という話に。そんなちょっとした遊び心から、今回のコラボが実現しました。

どちらのメディアにも共通するのは、「共に生きる」という思想だと僕らは勝手に思っています。今回の新しい試みを、『ひきポス』の魅力と共に楽しんでいただければ幸いです。

(かがり火WEB編集部)

はしがき

筆者である私、ぼそっと池井多が、あるSNSを始めて以来、ずっと愛用し続けているプロフィール写真がある。

理由は単純で、私という人間を端的に表現した一枚だからだ。

撮影は土橋詩歩(どばし・しほ)さん。 

2019年3月11日。私は、彼女に再会するため岩手県釜石市を訪れた。人口3万4千人ほどの、自然に囲まれた「鉄と魚とラグビーのまち」といわれている市である。

ギネスブックに世界最深として認定されていた釜石港湾口防波堤までもが破壊された東日本大震災から、ちょうど8年が経った日であった。

【文・インタビュー:ぼそっと池井多/協力:土橋詩歩】

震災前に自宅の茶の間があった場所で。写真:Miyano Shohei
釜石駅周辺。写真:土橋詩歩

釜石の軌跡

釜石市の北部にある鵜住居(うのすまい)地域。

いのちをつなぐ未来館が開館セレモニーを迎えていた。ここは震災前、鵜住居地区防災センターという場所であった。

一時避難場所には指定されていなかったが、「防災センター」という名称を持ち、かねてより津波避難の訓練が行われていたため、いざ津波がやってくるときに、地区の住民など244名以上が避難してきた。そのなかで、推定210名ほどが建物ごと津波に呑まれて亡くなった。「釜石の悲劇」と呼ばれている。

すぐ背後には、2週間後に三陸鉄道リアス線の駅として営業再開を控えた鵜住居駅が雨に濡れていた。

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2019年3月三陸鉄道リアス線として再開した鵜住居駅(左)の前で(右)。
写真:ぼそっと池井多

一方では、のちに「釜石の軌跡」と呼ばれることも、この鵜住居地区で起こった。

津波てんでんこ。「津波が来たら、各自てんでばらばらに、勝手に逃げろ」という意味である。

そんな津波教育がかねてより徹底されていたため、地震発生直後に釜石東中学校の生徒たちは、それぞれ自分たちで判断して避難先へ走り出し、それを見た隣接の鵜住居小学校の児童たちが続いた。

第一避難先の介護施設に到着して、いったんは全員の無事を確認したものの、中学生は小学生の手を引いてさらに高台へ走り、それを見た地域住民も後に続いた。

結果的に、学校は10mを超える高さの津波に襲われ、第一避難先の介護施設も1階が水没したが、当日登校した生徒児童約600人は体調不良で欠席していた子1名、途中帰宅した1名と校内に残っていた事務員1名以外、全員が無事であった。

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高台に再建された現在の鵜住居小学校。土橋さんの車の中より。
写真:ぼそっと池井多

土橋詩歩さんは、この地域で生まれ、20年間暮らした。

そんな土橋さんに、ひきこもり生活を経た近況を尋ねた。

ひきこもりの始まり

ぼそっと池井多 土橋さんは、どのようにひきこもりが始まったのですか。

土橋詩歩 高校を出て、釜石市内で経理だとか車を洗ったりとか、そういう仕事をしていたんですけど、2010年の夏にうつになってしまいました。

積み重なっていったものが、身体に出たのでした。心も体も一切が動かなくなってしまったことで、初めて心身が悲鳴を上げていたのだということに気づきました。

それで3、4か月の間、ひきこもり状態になりました。

うつが良くなってきて、次の仕事を探し始め、新しい就職先であるNPO法人のために履歴書を書きました。もう、あとは投函するばかりにして、家に置いたままコンビニへ買い物に出てきました。ところが、その履歴書はもう二度と見ることはありませんでした。

ぼそっと池井多 というと?

土橋詩歩 自宅近くのコンビニの駐車場で車を停めていたら、あの地震が発生しました。

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新しい堤防の外側には、津波で破られた古い堤防があった。 
写真:ぼそっと池井多

津波襲来

土橋詩歩 私は、揺れを感じ、ふだん逃げないと言っていた父や母や祖母を迎えにいき、飼っていた犬をつれて、鵜住居地域の内陸部へ逃げました。間一髪のところでした。

翌々日、3月13日までその周辺で暮らしていました。

やがて、山間部にある旧道が通れるようになったので、釜石市の西部の内陸にある母の実家へ行くことになりました。

ニュースを含め、停電状態が続いていたため、情報が何も入ってこない状況でした。そのため、地震が再来した場合、実家が倒壊するんじゃないか、という心配があったので、母の実家へ向かうことにしたのです。

避難所で長期間暮らすこともなく、母の実家に身を寄せて、祖父母や叔母や叔父やいとこたちと一軒家の下で大人数で暮らしました。 

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8年目の3.11、町長以下30名の職員が犠牲になった旧・大槌町役場後の地蔵に参詣する土橋さん。鵜住居地区のすぐ北側にあたる。
写真:ぼそっと池井多

震災とうつの不思議な関係

ぼそっと池井多 土橋さんは、震災がきっかけでうつがぶり返したとか、そういう体験はありますか。

土橋詩歩 ないです。私はむしろ、震災があったことによってうつ特有の「いなくなりたい」という気持ちがおさまり、「生きなくてはならない」という気持ちが強くなりました。これは本能なんですかね…

ぼそっと池井多 「むしろ元気になった」というと語弊があるけれども、震災があって元気になった?

土橋詩歩 そうなんです。「語弊があるけれども元気になった」という言い方が的を射ているかな、と。

自分で火を起こさなないと煮炊きができず生き延びられないとか、「今のことを何か書き残しておかなくてはいけない」と絶えず思うとか、とにかく「懸命に生きないといけない」という状況になったことで、私は元気にならざるをえませんでした。

これは不思議なことです。震災前に新しい職場へ履歴書を書いていたころ、私の生きる気力はものすごく低かったんですよ。危機的な状況に陥り、生命のエネルギーみたいなものが上がったように思います。

ぼそっと池井多 それで活力が出て、地域の復興のために活動し始めたりしたのですか。

土橋詩歩 それは、発災後から数か月後の話ですね。

震災の2か月後、2011年5月に、私は職業訓練校でワードやエクセルの勉強をしていました。その後はカナダ大使館からの支援があり、短期留学の機会が与えられたので、2か月カナダで語学を学んできました。少しだけ(笑い)。帰国したのが2011年12月です。もともと好奇心旺盛だった私は、その2か月で新たに見聞きしたものは数知れず、あまりに楽しい未知の世界を体験することができました。

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就寝前の時間に映像ライブ配信をしている。その画面から。

土橋詩歩 新しい世界との出会いというのは、すごく衝撃的で、震災以前やその直後 よりもすごく前向きな気持ちになれました。一方では、震災後の釜石のために、自分が何かできることはないか、ということを常に頭のどこかで考えている時期でもありました。釜石を出るか出ないか、しきりに悩んでいたのです。

釜石を出てしまったら、地域のために活動できなくなる。釜石で自分のような者が活動できるのは、震災直後の2011年とか、こういう今しかないんじゃないか。……そういう葛藤でした。

そのとき「いっしょに働いてみない?」と声をかけてくれた先輩がいたんです。震災によって、人々の暮らしや居場所は激変し、それまでの地域コミュニティがばらばらになってしまっていました 。そのため、人々が気軽に行き来できるコミュニティ・スペースを作ろう、という案が地域であったようで、それに基づいて開設されたコミュニティ創出スペースの管理人をいっしょにやらないか、というお話でした。

奇しくも、震災直前に私が履歴書を書いていた先が、その勤務先であるNPO法人だったのです。そこで2012年春から働くことになりました。紆余曲折があって数か月で辞めたものの、そのコミュニティ・スペースにいたことは、のちの私のために良い勉強になりました。あの体験があったから、現在担わせてもらっているシェア・オフィスのコミュニティマネージャーにつながっているのかな、とも考えています。

町と自分の復興

ぼそっと池井多 土橋さんというと、私にとっては「天才写真家」なんですが(笑)、写真はいつ始められたのですか。

土橋詩歩 いえいえ、原来私は写真がすごく下手だったのです。2012年の秋、写真にのめりこみ始めました。

まちづくりに関わるようになって、そのメンバーたちと一緒に活動することが増えて、そこで写真もやってみようと私が提案しました。2012年夏くらいから、まだ震災の爪痕が強く残る釜石の町の魅力をファインダー越しに見つけようということで、釜石の若い人たちに呼びかけて写真サークルを立ち上げました。

私があのメンバーの中でいちばん写真が下手だったからこそ、のめりこんだのかなとも思います。下手だったから、あちこちの方にコーチとかお願いして。お願いするのにも、私はあまりマナーとか知らなかったものだから、コーチを頼めなかったこともありました。

それで「写真を本格的に勉強したいな」と思い立って、2013年春から東京に出ていくことにしました。それが東京に住んだ初めての経験ですが、ずっと前から東京に出ていきたかったので、一大決心ということのほどもなく、「やっと実現した」という感じでした。

東京へ出ていく

土橋詩歩  東京で2年間、働きながら夜間部の写真学校に通いました。そこを卒業して、念願の新聞社に就職して、1年もしないうちに辞めて、失業保険で暮らしていたんですが、それが切れて、お金がなくなって生活保護寸前まで困窮しました。そして2015年、私はまた東京でひきこもりになったのです。

私は、新聞社は辞めても、ずっと書く仕事は続けていきたいと考えていました。でも、周りからは「あんたにできるはずがない」「もっとこういう仕事したら」「仕事を選ばないで、とにかく働け」と否定されるばっかりで、苦しくて、私はまたひきこもってしまったのです。

そんなある日、発達障害の記事を読みました。発達障害はこういう生きづらさを感じていて、向いている仕事はこういう職種だ、というようなことが書いてありました。その記事に勇気をもらったので、それを書いたジャーナリストの池上さんに連絡しました。そうしたら2016年の夏、池上さんから「ひきこもりの当事者メディアが立ち上がるから、そこへつながってみたら。編集記者やカメラマンの経験がいかせるかもしれませんよ」と案内をもらいました。

ぼそっと池井多 なるほど。それで私が土橋さんにお会いした、ある当事者メディアにつながったのですね。私は自分で情報を見つけて2016年12月にそこへつながったのですが、それで土橋さんとお会いすることになりました。そして、いまも私が愛用しているプロフィール写真を、2017年2月に撮っていただいたのでした。

撮影の帰り、下北沢だったか、一緒に歩きながらお話をうかがったときに、「この女性は、一種の天才だな」という印象を持ったことを憶えています。

でも、それ以後、あまり詳しくお話をする機会もないままに、私からすると、いつのまにか私たち東京のひきこもり界隈から土橋さんが消えていました。

あのころ、あなたはどこへ行っていたのですか。(笑)

土橋詩歩 ぼそっとさんに連絡できなくて申し訳なかったです。じつは、私はまた就職していたのです。

その当事者メディアに頻繁に関わっていた当時、私は夜バイトしながら当事者活動をしていたんですけど、昼間の仕事をしたくなって、あるウェブメディアに就職しました。もっと当事者発信を効果的におこなうために、プロのメディアで修行したい、というのがその就職の動機だったんだけど、そちらの仕事が忙しくなって、だんだん当事者発信に関われなくなっていってしまいました。そうこうするうちに、また体調を崩しちゃったのですね。また実質ひきこもり状態に戻って、部屋から出られなくなりました。

ぼそっと池井多 職場で人間関係に悩んだのですか。

土橋詩歩 いいえ、ぜんぜん。すごく良い職場で、やりがいのある仕事で、人間関係にも恵まれていたんですけど、ついついがんばってしまったものだから、また持病の摂食障害が出てきて、腹痛がひどくなって、精神的にもすさんできて、部屋から出られなくなったのです。

ふりかえると、季節的な原因もあったのかもしれない。真冬とか、年度の変わり目の春は、私はもともと体調を崩しやすいんです。

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ぼそっと池井多 おやおや。それでどうしたんですか。

土橋詩歩 釜石にいる家族に「体調を整えるために、いったん実家で休ませてもらえないかな」と相談しました。ほんとうは私が実家に帰ると、今度は年子の兄が心のバランスを崩す傾向があるので、「あまり帰ってこないでほしい」というようなことを言われるんだけど、「私が立ち行かないから帰らせてほしい」と言って、家族には受け容れてもらいました。

ぼそっと池井多 会社の方には何と言いましたか。

土橋詩歩 会社の上司は、「大きな決断をしたんだね。体調が戻ったら連絡をくれ。そのとき振れる仕事があったら振ってあげるから」と私を気づかいながら、私が辞めることを受け容れてくれました。

そうやって釜石に帰ってきて、2017年夏から、前の職場から業務委託として書く仕事をいただき、フリーランスのライターとして実家で仕事を始めたのです。それで一年ほど、ひきこもりフリーランスとして仕事することになります。

地元に念願のシェア・オフィスが

土橋詩歩  2018年5月にここ、釜石にもシェア・オフィスができることを知って、私はすごく感動しました。それまで釜石では、周りにフリーランスのライターみたいな人がまったくいなかったので、ある意味すごく孤独だったんです。「シェアオフィスみたいなのがあれば、同じことやっている仲間と地元で知り合える」と思って、感動したのですね。

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マネージャーをしているシェア・オフィス「coba」。写真:土橋詩歩

土橋詩歩 2018年8月、ここのオーナーが「忙しすぎる。猫の手も借りたい」みたいなツイートをして、「私でよければ手伝います」とリプしたところが、「シェアオフィスがうまく回っていないから、その管理をやってくれないか」と頼まれました。

それでその8月から今日まで、一年半以上これをやっています。仕事の内容は、シェアオフィスのコミュニティーマネージャーといって、施設の管理や会員さんとの交流などです。

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釜石大観音(左)と参道にあたる仲見世商店街の夜(右)。
写真:土橋詩歩

ゼロ店舗商店街からの出発

土橋詩歩    ここは、釜石大観音の仲見世商店街を復活させるための拠点でもあります。あそこに見えるのが、釜石市を象徴するスポットのひとつであり、「恋人たちの聖地」なんて呼ばれて、ランドマークとしても広く知られている釜石大観音です。鉄筋コンクリートでつくられた高さ48.5mの魚藍観音像で、明峰山石応禅寺の発願により、1970(昭和45)年に建立されました。

その門前町として、石応禅寺が山林だった土地を買い取って分譲したのがこの釜石仲見世商店街です。京都の清水寺門前町を参考に、赤い瓦の屋根、土色の外壁、2階の格子窓のデザインが統一されていました。1977(昭和52)年ごろまでには最盛期を迎えて、二十数店のお店がならび、人にぶつからないでは歩くことができず、観光バスが何台もならんでいたこともあったと言います。

でも、地方に活力がなくなってきた2007(平成18)年に、中心的な店舗であった大食堂が閉店して、ツアー客が減少し始めました。しだいに閉店するお店が増えて、やがてゼロ店舗の商店街となりました。

この仲見世通りにもう一度かつての活気を取り戻したい、ということで2015年に仲見世リノベーションプロジェクトというのが立ち上がり、このシェアオフィスがその拠点となっているのです。

ぼそっと池井多 このインタビューのシリーズは「ひきこもりと地方」というんですが、東京周辺とは異なる、地方ならではのひきこもりの諸事情をお伝えしていきたいと思っています。この地方のひきこもりの当事者会などはありますか。

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コミュニティマネージャーをしているシェア・オフィスで。
写真:ぼそっと池井多

土橋詩歩 私が知る限りはありません。なので、この地域でいろいろな生きづらさを感じている人が気軽に交流できる場をつくれればいいな、と思っています。

今はまだ、非営利的な空間を開催する余裕がないんですけど、「生きづらさの軽減」という問題を、私はとても重要視しているので、そのためには「生きづらい人のための居場所を作る」ということがミッションとしてあるな、と感じています。そこまでの道のりはまだまだ遠いですが少しずつ実現していきたいです。そういう場所を求めている人たちは、この地方にも確実にいると数字でも出ているので。

東京のようなわけに行かない、地方の当事者会

ぼそっと池井多 もうすでに、釜石とその周辺で、土橋さん以外のひきこもり当事者や、生きづらさを訴えている人は、誰かご存じですか。

土橋詩歩 それが、なかなか情報が入ってこなくて。そういう人たちがいることは、人づてに、支援者の人などから聞くんですけどね。社会参加の一端として、とある組織のところで、薪割りとか簡単なことから社会参画を始めているひきこもり当事者のお話なども、聞くことは聞くんです。

でも、「守秘義務があるから」ということで、具体的な情報は教えてもらえません。当たり前なんですけどね。そのため、私自身は見たことも会ったこともないのです。東京であればもっと気軽に当事者会で知り合うことができていたので、まったく違う状況だなと痛感しています。

ぼそっと池井多 どの地域に行っても、よくある話なのですが、ひきこもりは透明人間のように見えない人口として存在する、と。間接的に存在が伝わってくるんだけど、実際に会うことのない人々として。

土橋詩歩 私自身は、ちょうど東京で知り合ったみたいな、ちょっと活動的なひきこもりの人たちと、この釜石周辺で出会いたいな、と思っているんです。そういう人たちと対話して「いま、この地方のひきこもりはどうなっているのか」って対話する場があるといいと思うんですよね。

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仲間と。写真:土橋詩歩

私がひきこもり経験を語る理由

ぼそっと池井多 そのために、土橋さんは 何をやろうとしていらっしゃるのですか。

土橋詩歩 私はまず、「ひきこもりが問題とならないために、ひきこもりという話題をとりあげていく」ようにしています。ひきこもりへの偏見を無くしたくて「自分がひきこもっていました」ということを率先して皆に言うようにしています。私は自分がひきこもっていた経験を全然否定していなくて、あのころは自分にとって必要な選択肢だったのだと考えていますから。

釜石に限らず、地方の町というのは東京に比べると小さいので、何事もすぐに知れ渡ってしまうんです。みなさんひきこもりに関して口を閉ざしてしまうんですね。でもそれは、ひきこもりへの背徳感があるからなのではないでしょうか。それを変えていけば、何事もすぐに知れ渡ったところで怖くはないでしょう。

このように考えられるようになったのは、都内で当事者活動をしていたころに、ひきこもりは悪ではない、負の経験でもない、という認識で活動していた仲間たちといっぱい出会うことができたからです。微力ながらも、そういう考えを、釜石周辺および、地域に住んでいる ひきこもりの皆さんやひきこもり当事者のご家族にも伝えられる方法はないかと模索中です。

本日は本当にありがとうございました。体調第一に、これからも粛々と活動していきます。

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コミュニティマネージャーをしているシェア・オフィスで。

(おわり)

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