『「河川工学者三代は川をどう見てきたのか 安藝皎一、高橋裕、大熊孝と近代河川行政一五〇年』という本が出版された(篠原修著。農文協プロダクション刊。3500円+税)。
3人は日本の土木工学の本道を歩んできた碩学だが、唯々諾々と国の開発計画に従うような人物ではなかった。反骨の精神の持ち主といってもいい。
幸いなことに大熊孝氏は本誌の古くからの読者である。早くから脱ダムを唱え、小さな洪水は受容したほうがいいと学者らしからぬ発言をしてきた。
昨年胆管がんの大手術をして現在療養中だが、この本の中でこれまで知られていなかったことも語られている。あらためて日本の河川行政、川と住民の関係性について話を聞くために新潟市みずき野の研究室を訪ねた。
なお、インタビュアーは、新潟水辺の会で長年行動を共にしてきた本誌支局長の相楽治(さがらおさむ)さんにお願いした。(編集部)
(大熊孝=新潟大学名誉教授。現新潟市潟環境研究所長。専門は河川工学、土木史。台湾生まれ。東京大学工学系研究科博士課程卒。NPO法人新潟水辺の会顧問などを務める。著書に『洪水と治水の河川史』平凡社など。著者の篠原修氏は景観工学の権威で、東京大学名誉教授。東京大学土木工学科卒で大熊氏の1年後輩)
改ざんは許せないという気持ちだった
── 昨年の大病からの復活、まずはおめでとうございます。
先生にはまだまだ頑張っていただかなければいけませんが、このたび出版された本には、長年お付き合いいただいている私でも知らないことがたくさん書かれていました。
先生の博士論文が当時の建設省利根川工事事務所の倉庫に「極秘」の判を押されて保管されていたということですが、論文がなぜ極秘扱いだったのでしょうか。
大熊 治水計画を立案するための基準値に基本高水というのがあるのですが、ちょっと専門的な説明になってしまいますが、流域に降った計画降雨が河川に流れ出た場合の時間変化の流量を表したものです。
利根川ではその基本高水のピークの流量値が以前は毎秒1万7000トンであったものを毎秒2万6000トンに変更するという計画がありました。
昭和22年のカスリン台風時の洪水ピークが毎秒1万7000トンと言われていたのがそれまでの計画の根拠だったのです。
そんなに急に上がるわけがないので調べたところ、国は立案した計画とつじつまを合わせるために、カスリン台風時に上流であふれたことにして、毎秒2万6000トンになるとしたのです。
── 国はダムを造りたいので、データを大幅に改ざんして治水計画を作っていたということになるのでしょうか。
大熊 おそらくそうだと思います。しかし毎秒1万トンも急に増えるのはおかしい。調査していくと山の上まで氾濫したことになっている。
「博士論文」は青焼きで100部作り、建設省などあちこちに配ったんですが、そんなデタラメをやるなって書いてあります。建設省はこの論文が広まればまずいことになると思って、世の中に出ないようにしたのだと思います。
僕は論文をこのまま埋もれさせてはならないと、東京大学出版会から『利根川治水の変遷と水害』として出版しました。しかし論文では基本高水の数値を都合よく勝手に変えるなと書きましたが、出版に際してはさすがに同じ身内の土木屋の恥をさらすようなものだから、この部分は割愛したのです。
── なるほど。先生の論文が極秘扱いになった理由が分かりました。しかし、論文だけでなく、先生ご自身も、危険視されるようになったようですね。
大熊 その後も、今の八ッ場ダムが必要だという人たちが毎秒1万7000トンじゃなくて毎秒2万2000トンだって言っている。その差はどこに行ったのかと聞くと、いまだに上流の山の上まであふれることにしている。
それで僕はずうっとおかしいと指摘しているので、ダム推進派の人たちにとっては危険人物ということになってしまったのでしょう。
── 不自然な数値のつじつま合わせは利根川の研究調査で分かったことですか。
大熊 もちろんそうです。当時建設省が出した氾濫図を持って、昭和22年の利根川の水害現場を隅々まで全部歩いて、氾濫したかしないかを確認して回ったのです。簡単なことですよ。
── 国民はその数値が正しいか間違っているか分からないわけで、国がやることは基本的に信用せざるを得ないわけで、そんな話を聞くと国に不信を抱かざるを得ません。
大熊 建設省としては利根川の治水計画をできるだけ大きくしたいわけです。私はそんな改ざんは許せないと「論文」には書いたけれど、出版する時は自主規制してしまった。今にして思えば書いておけばよかったと思っています。
── 大熊論文の重要なもう一つの論点に、東京湾に流れていた利根川を東側の銚子のほうへ流れを変えた河川工事の「利根川東遷」がありますね。
大熊 ドクター論文のもう一つのポイントです。「利根川東遷」は江戸時代に家康がやったと言われていますが、僕は江戸時代では無理だと考えたのです。普段少しだけ舟が通れるように水を流したが、利根川の洪水を今の利根川下流に流すほどの工事はできなかった。
それで、「利根川東遷」は明治政府がやったものだと僕は論文に書いたのです。足尾鉱毒事件が起きてからは、鉱毒は洪水と共に流れるから東京へ向かう江戸川には入れたくなかったのでしょう。そこで利根川の洪水が今の利根川下流のほうに行くように大規模な河川改修を行った。
洪水がらみの「利根川東遷」は明治政府がやったことですが、その責任を江戸幕府に押し付けるために、「利根川東遷は、すでに江戸時代に行われていた」ということにしたのです。そのことは足尾鉱毒研究の中で明らかになってきたことです。しかし、「利根川東遷」の責任が、明治政府にあるといわれることは、今の政府にとっても気に食わないことでしょう。
── 流量の改ざんを指摘されたほかに、政府が公にしたくないことも明らかにされた論文ですから、建設省は「極秘」扱いにしたわけですね。
大熊 「利根川東遷の明治政府の事業説」については評価が出始めていたからまあいいと思っていた。だけど、洪水の流量問題はまさに改ざんというか、あふれてもいない所をあふれたなんて、土木屋の風上にも置けないことをやっているわけで大問題だと指摘したわけです。
国が相手でもおかしいことはおかしいと言わねばならない
── 先生は大学入学時には建築志望だったようですが、河川を「一生のテーマ」に選んだきっかけは何だったのですか。
大熊 高橋裕先生の河川工学の講義で「人間が、水害をなくそうとやっている治水の仕事なのに洪水流量が大きくなってまた水害になるという矛盾」を教えてくれました。
これはやっぱり何としても解決しなきゃならない一生のテーマだと、3年生の時から思うようになりました。この矛盾を解決したいと思い、応用力学研究室にいたのですが大学院進学で河川研究室に変えたんです。
それに子どものころ祖母から八田與一(1886~1942。日本統治時代の台湾で、農業水利事業の嘉南大圳(かなんたいしゅう)に大きな貢献をした土木技術者)の話をずっと聞かされていて、それが潜在的にあったからだと思います。力学をやりながら川に行ってしまった。
── 台湾では今でも八田與一は敬愛されていて、毎年感謝祭が行われているようですね。
大熊 『河川工学者三代』には書かれていないけど、祖母から八田與一の話と同時に後藤新平(1857~1929)の話もずいぶん聞かされました。後藤新平は日本の都市計画を進めた人物。例えば、関東大震災後の東京の大改造は彼がやっている。
明治以降の土木行政を本当に進めた人物は後藤新平だと僕は思っています。私の祖父の大熊米次(1876~1925)は、台湾総督府の民政長官をしていた後藤新平にかわいがられていたということです。
── 水害裁判についても伺いたいのですが、先生は新潟大学の助教授になられたころ、広島の太田川水害の裁判で原告側から鑑定人を頼まれていますね。
大熊 そう、原告側から。昭和47年の水害について頼まれ、昭和56年に鑑定書を書きました。
── 裁判で市民側の原告の鑑定人になると、その後は被告側の国から疎んじられるというか、好ましくない学者というようなレッテルを貼られることはないのでしょうか。
大熊 あるかもしれませんね。でも裁判の後でも、建設省は僕のことを信濃川のJR宮中取水ダム関連の信濃川中流域水環境改善検討委員会に入れ、黒部川の排砂評価委員会にも入れている。
だけど信濃川の治水に関わる河川整備計画学術委員会には僕ではなくてNPOとして相楽さんを入れて、僕を入れなかった。本命の治水計画を立てるところでは、僕は入れたくなかったんだな。地元との関係で僕がいたほうが都合がいいという時は、僕を入れるっていう感じだったと思います。
── 鑑定人というのは、ある意味真っ向から国の瑕疵を指摘するので、見えない大きな力が働いて学者でもビビるのかなと思いますが。
大熊 普通はビビるでしょう。だけど僕は文部省の大学人だから大丈夫だって思っていました。心配は学生の就職だけでしたが、試験に合格さえすればどこにでも入れると思っていました。
教え子たちは、建設省や県や市の土木関係にたくさん就職しています。ただ教え子たちが県に就職して、補助金をもらうために建設省に行った時など、「お前、大熊の弟子か」って嫌みを言われて、気まずい思いをすることはあったと思いますが、その程度ですよ。
── ダム裁判で被告側と真正面から丁々発止とやり合ったケースはありますか。
大熊 裁判ではないけれど、利根川の八ッ場ダム関係では推進派と随分やり合いました。いまだにあふれていない所をあふれた、それをあふれさせないようにするから流量が大きくなると言っているんだもの。
利根川江戸川有識者会議でそれはもう激論をしました。東大の後輩の小池俊雄教授にあなたの計算はおかしい、という意見書を書いて、委員会に提出したりしましたよ。
── 先生は優しいから、そこまでダム推進派とやり合っているとは思いませんでした。
大熊 僕はね、〝日本の河川工学の本流を歩いているのは僕だ〟という強烈な自負があるの。国交省のほうが間違っているって。平気でいられるのはそれがあるからかね。
それと1990年ころ、川の定義をきちっと決めてからは、これにのっとって発言すればいいだけだからと思うようになりました。それまでは僕自身、ダム反対を独りで言い続けるのは厳しいと思ったこともあったけれど、川の定義をしてから、覚悟が決まった。
── 川をどのように定義なさったのですか。
大熊 『川とは、山と海とを双方向につなぐ、地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中にゆっくりと時間をかけて、人の〝からだ〟と〝こころ〟をつくり、地域文化をはぐくんできた存在である』としました。
── 篠原さんの本に、大熊先生は80年代後半、絶望していたとありましたが。
大熊 三面張りはダメとか、ダムは川をダメにするとか、いくら発言しても誰も聞いてくれず、孤立無援でしたから孤独を感じていました。80年代はバブルの時代で、まだ田中角栄さんの力が強くて、土木行政に反論するようなことを言ったら袋だたきに遭う時代でした。新潟県には1兆円規模の投資がなされていましたから。だからしょうがないから、雪のほうを研究するようになったのです。
── おかげで雪国の新潟県民は大きな恩恵を受けることになりました。
大熊 川の問題を卒論でやらせるとコンクリート護岸はダメとかダムは治水の役に立たないとか、そういうテーマに行きがちになるけれど、そんな卒論は書かせるわけにはいかないじゃない。
だから1990年過ぎるまではそういう批判的な卒論はやらせていません。それに代わるいいテーマとして雪の研究にしたのです。これは建設省とも県や市とも対立することがないからね。
── 学生への愛情が基本的な理由ですね。雪の研究で最初に取り組んだテーマは何ですか。
大熊 雪を溝に入れて溶かす「消融雪溝」や、流す「流雪溝」、それから「路面流水道路」もやった。新潟県職で技監までやられた天城幹郎さんが、当時なぜか僕を気に入ってくれて、「何か除雪関係の研究をするなら予算を付けてやる」と言われて、800万円ほどの予算をポーンと出してくれた。今考えてみれば、よくぞ出してくれたものと思います。雪の研究はその後、僕としては納得するまでやったつもりです。
── 先生と長年お付き合いして感じることは、偉ぶることのない率直でフェアな人だということです。何かの集まりの時でも、いつも参加費はきちんと払ってくださるし。
大熊 当たり前でしょう。僕は研究でも本当に勉強したいなら自腹を切る覚悟が必要だと思っているの。助成金や何か他人のお金を当てにしている研究は本当の研究じゃないんじゃないかっていう気がします。
だから教え子たちにも、「いざとなったら自腹を切ってやれ」って言ってきました。1996年に僕と鬼頭秀一、内山節で始めた「三人委員会哲学塾」も3人は参加費も交通費もすべて自己負担ですよ。
── 先生は映画『阿賀に生きる』(佐藤真監督。1992年)を製作するために自ら先頭に立って3千万円の資金を集めていますね。1千万円の赤字は、後で賞を取ったから返済できたようですが、当初は借金を背負うリスクも十分ありましたね。
大熊 十分にあったと思います。佐藤監督が、赤字が出れば最後は自分がかぶるって言っていたけれど、製作委員会の委員長として当然僕もかぶる覚悟はできていました。当時はバブルの時代だったし1千万円くらいどうにでもなると思っていて、少しも驚かなかった。
── 先生が積極的に市民と連携するようになったのは、新潟水辺の会に関わってからでしょうか。
大熊 新潟水辺の会は僕にとっては大きかったですよ。やっぱり市民が僕のバックにいるっていうのは、圧倒的な強みです。会の設立の提唱者である相楽さんのおかげです。
小さい災害は受容したほうがいい
── 大熊先生が「洪水は完璧に制御しようとするのではなく、ある程度の被害は受容して対応したほうがいい」と考えるようになったのは、良寛の影響だということですね。
大熊 良寛は「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃れる妙法にて候」と言っています。この言葉に触発されて水害の受容を考えるようになったのです。
── この言葉をどういうふうに理解されたのでしょうか。
大熊 最初は理解できなかった。でも良寛の言葉は、大きな災害をもたらす台風だとか豪雪だとか津波だとか、そういうものは人間に害を与えるだけでなくて、奥深いところで、恵みをもたらすものだと言っていることに気が付いたのです。
── 自然災害の二面性ですね。
大熊 3.11の津波にしても「森は海の恋人」で知られる気仙沼のカキの養殖家の畠山重篤さんが、津波のおかげで海のヘドロが全部消えて、カキが非常によく採れるようになったと言っています。
── 自然災害は完璧に克服するというか、打ち勝つことはできないということなんでしょうね。
大熊 だから「災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候」なんですよ。
── 東日本大震災の復興で、巨大な防潮堤を造っている三陸のまちがありますが、あれなども地元の人たちが、こんな高い壁に囲まれて暮らすのは嫌だって言っても、災害を完璧に克服できると考える中央の役人たちが強引に造っているような印象です。
大熊 そうそう、川のほうも常に国交省はそうでしたよ。俺たちが守るからお前たちは口を出すなっていう姿勢でした。
── 昔の水辺は洗い場もあって、おばちゃんがいて、子どもが魚を捕まえようとしたり、関係性を感じられる景色がありました。いまはそれぞれ機能性によって隔てられ、全体的なつながりがなくなったように思います。
大熊 僕と同世代、あるいはより上の人たちは水辺で遊ぶことの楽しさは感性的に重々知っているんだけど、結局それが国民的な合意として理性的に確立されてこなかったということだと思います。
だから今でも理想的な水辺をつくろうとしても、一人二人の人間が土地所有権や経済的なことを持ち出して反対すると押し切れない。それはやっぱり国民的なコンセンサスがキチンとできていないことにあるんじゃないかということが、今の僕の問題提起なんです。
── 小さなころから川で楽しむ具体的な情報とか知識が日常的にあればいいですね。
大熊 斉藤惇夫著『河童のユウタの冒険』という本が昨年4月に出版されました。新潟市の北の福島潟や信濃川・千曲川が舞台ですが、国民的文学になり得ると考えています。
この本が国民的広がりで読まれることによって〝水辺の楽しさ〟のコンセンサスがつくられていくことを願っています。これを読んだ子どもたちが30年後、40年後にどんな成長をするか楽しみです。
<インタビューを終えて>
大熊先生から私たちは「本来の川の魅力、あり方」をいろいろ教えていただいた。川ウオッチや鮭稚魚の放流、カヌーなどの川遊び、国内外の川ツアーなど、川のもたらす恩恵を学んだ30年でした。
大熊孝先生は河川工学者というより、川をこよなく愛する哲学者という感じです。いつまでも、水辺の逆光に映える格好のいい背中を見せていただけることを期待しています。
【2018年3月16日 新潟市みずき野の大熊河川研究室にて取材】
※聞き手:相楽治。技術士(建設部門・農業部門)。1948年福島県生まれ。NPO法人新潟水辺の会代表。『かがり火』の「開港五港新潟水辺支局長」。らく地域ブランド起業研究室主宰。
(おわり)
※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』180号(2018年4月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。
『「河川工学者三代は川をどう見てきたのか 安藝皎一、高橋裕、大熊孝と近代河川行政一五〇年』(篠原修著。農文協プロダクション刊。3500円+税)
『洪水と水害をとらえなおす-自然観の転換と川との共生』(大熊孝著、農山漁村文化協会、2020年)
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