“面白主義”の思想に生きる、元「劇団ふるさときゃらばん」の寺本建雄さん

昨年の11月末、東京・新橋の中華料理店「新橋亭」で開催された、山形県遊佐町の元町長・小野寺喜一郎さんが主催する遊友倶楽部に出席した。そこで「ふるきゃら」の寺本建雄さん(73)と再会して非常に懐かしかった。

全盛時の「ふるきゃら」の芝居を観たことのある人は、どんなストーリーの芝居だったかは忘れていても、あの時の感動、興奮は体に染み付いているに違いない。

ふるきゃらは1983年に、脚本家で演出家の石塚克彦さんが統一劇場から分かれて旗揚げしたミュージカル劇団である。2010年に自己破産するまで全国1200の市町村を巡演し、456万人の観客を動員した。ふるきゃらファンにとっては、「嵐」や「SMAP」より親近感のある劇団だった。その後の寺本さんの活躍ぶりを報告させていただく。(本誌・菅原)

※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』191号(2020年2月25日発行)に掲載されたものを、WEB用に若干修正したものです。

元遊佐町町長の小野寺喜一郎さんと、寺本建雄・祖父江真奈夫妻。

笑いと涙の感動の舞台だった

劇団を率いる石塚克彦さんと、作曲家で演奏家、そのうえ個性的な絵を描く寺本建雄さんは劇団の二枚看板だった。

『かがり火』の1994年の42号から1998年の65号まで24号分の表紙は寺本さんに描いていただいた。表紙の絵をお願いしたといっても、寺本さんと本誌は昵懇の間柄にあったわけではない。あのころの“ふるきゃら”は飛ぶ鳥を落とす勢いで、無名だった本誌にとって寺本さんはまぶしく、雲の上の存在だった。

ふるきゃらのポスターや公演会場に掲げられたのぼりの絵は一度見れば忘れられないもので、劇団に問い合わせたら、寺本さんの絵だというので非常に驚いた記憶がある。忙しい公演の合間に5年間も表紙を描いていただいた恩は忘れない。

寺本さんに描いてもらった『かがり火』の表紙。

ふるきゃらの芝居を観たことのない人のために申し上げると、この劇団は、当初、農村地帯に生きる人々の悲しみや喜びをテーマにしたミュージカル劇団としてスタートし、後に都会のサラリーマンの哀しさもテーマにするようになった。帝劇や日生劇場にはよそ行きの服装で行かなければいけないとしたら、ふるきゃらは普段着で入場できる気楽さがあった。

公演会場は大抵の場合、地方の公民館か小学校や中学校の体育館だった。大衆演劇を見下しているような人が軽い気持ちで入場しても、幕が下りて出て来る時は、圧倒的な迫力に鼻水と涙でぐしょぐしょになっていた。劇団創立のころについては『ミュージカルへのまわり道』(石塚克彦著、写真:英伸三。農文協刊)に詳しい。

「とびだす100通りのありがとう」

ふるきゃらは解散した後、残った有志の劇団員が「新生ふるきゃら」を組織して、何本かの芝居を発表したが、劇団員も少なくなり、すでに往時の迫力は失っていた。2015年には石塚さんが亡くなり「新生ふるきゃら」も解散となり、やがてふるきゃらは語り継がれる劇団となった。

劇団解散後、寺本さんはどのような人生を送っているのか気になっている人も多いと思うので、近況をお届けする。

寺本建雄さんの黒装束は、練馬区役所の建築課に勤務していた時から変わらない。

荒川区町屋にある寺本さんの事務所は、黒装束にサングラス姿と同様に極めて個性的な内装だった。

「この仕事部屋は、ふるきゃら時代の応援団の方のご厚意で借りています。僕は音を出す仕事なものだから部屋探しで苦労していることを察して、空いている一室を改装してくれたんです。足を向けては寝られない応援団の一人です」

寺本さんの名刺には、「矢鱈面白LABO TERAKOYA」とあった。一人になってもミュージカルの公演を今も続けていて、渋谷区とコラボしているキッズミュージカルは12年も続いているという。

「昨年の3月は宮城県の仙石線の旧野蒜駅ホームで、200人が出演者する『MUSICALのびる』を公演しました。出演者はふるきゃらの時に使ったのぼりを半纏に仕立て直したものを舞台衣装として着て、歌ってもらいました。この芝居は2012年3月18日に銀座ブロッサムで上演したミュージカルの再演ともいうべきもので、東日本大震災をテーマにしたものです」

銀座で上演されたミユージカル「とびだす100通りのありがとう」は、かつての寺本さんのバンド仲間が東松島市に住んでいたことがきっかけだった。

「あの大震災の後、彼は東松島市で被災して、一時わが家に避難してきたことがあるんです。彼が言うには救援物資が日本からだけではなく海外からも続々届けられる。ありがたいけれども、何か施しを受けているようで少し後ろめたい気持ちにもなるというんですね。ありがとうを言う相手は、現場で働く役場職員やボランティアの人たちにであって、支援をしてくれた人たちにではないわけです。かといって一人ひとりにありがとうを言うわけにはいかない。よし、政府や外務省の代わりにミュージカルを作って、支援してくれた人たちに感謝の気持ちを伝えようということになったのです」

どこかの遊園地の不思議な館に入ったような内装の仕事部屋。

本誌はうかつにもこの舞台を見ていなかったので、DVDで見ることになったのだが、つくづく劇場に足を運ばなかったことが後悔された。

「とびだす100通りのありがとう」は被災した住民112人が舞台に上がって、3.11のあの日を告白するものだった。みんな被災者だから、語る言葉は一言一言が生々しい。しかしお金を取って見せる以上、芝居はどんなテーマであっても暗くては駄目で、未来に元気がつながるものでなければいけないと寺本さんは考えた。6カ月の猛特訓で、被災者は見事に歌手に変身し、心が晴れ晴れする舞台になっていた。

被災者の生々しい証言

舞台の被災者たちは一人ひとり、あの日の出来事を語る。夜、星空がきれいだったり、雪が降ってきたことを思い出したり、翌日、救援物資のおにぎりが配られたら凍っていて食べられなかったり、励まし合って生き延びたことを生き生きと語っていた。

「寒い中、高台で主人がいない中、2晩過ごしました。2晩目に主人が来てくれました。いつも無口の主人が泣きながら“死体またいでやっと来た”って。みんなで泣きました。その後、避難所で、わたしお世話係しました。

外国の新聞には日本人は正義を好み、礼儀正しく親切、と褒められましたが、そんな避難所ばかりではありません。わたしが食べ物を子どもから先にあげましょうというと、おじさんが“こんな時に子どもも大人もねぇ!”って声を荒げ、私はショックを受けました。

最初は食パン1枚の6分の1がひとりずつに配られ、5日目におにぎり、あとはずーっと甘いものが配られ続けました。最初のころ、8kg痩せました。でも避難所出る時、15kg増えていました」

張り詰めていた劇場の空気がはじけ、笑い声も湧き上がった。ちなみに劇場には秋篠宮ご一家の姿もあった。

2019年3月、仙石線旧野蒜駅ホームで公演した時の記念写真。

それにしても寺本さんは天才というほかはない。本来は作曲家のはずなのに、構成・音楽・脚本を担当し、被災者に歌唱指導をし、大道具小道具を作り、100人を超える素人集団を歌手に変身させたのである。

プロデューサーは劇団の女優だった奥様の祖父江真奈さんが担当した。こちらも資金を集め、稽古場や劇場を確保し、移動手段や宿を手配し、宣伝をし、チケットを完売した手腕には脱帽するしかない。

本誌が寺本さんに親しみを感じるもう一つの理由がある。寺本さんは北海道月形町で生まれ、3歳まで育った。月形町は明治政府が樺戸集治監(刑務所)を開いた土地で、作家の吉村昭が『赤い人』で、囚人が北海道の道路を造り、森林を伐採して開拓の礎をつくったことを書いている。この作品に強烈な印象を持っていた本誌は、月形町は特別な土地となった。

ちなみにこの小説は、寺本さんの父上・寺本界雄さんが月形町から依頼されて出版した『樺戸監獄史話』を参考にしたものだという。現在の上坂隆一町長が本誌の読者であることも、不思議な縁で結ばれていると思っている。

ららら主義

寺本さんには一人娘がいる。名前は寺本ららら。当節、キラキラネームが流行だが、らららとは、キラキラをはるかに飛び越えた発想だ。どんなにつらいことがあっても、ラララと歌を口ずさんで乗り越えて生きてほしいという親の願いから命名された。

らららさんは、生後10カ月の時に脳性まひにかかって、両上下肢機能障害になった。必死の治療のかいもなく子どものころから杖と車いすの生活になった。本誌はお会いしたことはないが、一度どこかの公演会場で、遠くから見掛けたことがあるだけだった。

らららさんは15歳の時に、オーストラリアのバララット&クラレンドカレッジに留学している。ハイスクール卒業後は国立バララット大学人文社会科学部に進学、9年間も両親の元を離れて留学生活を送った。その経験を2011年にマガジンハウスから『ららら主義』というタイトルで出版した。

この本がめっぽう面白い。面白いと言っては失礼になるかもしれないが、車いすのままの異国でのホームステイや学校生活が活写されている。強い意志とユーモア感覚、障害のある人に対する日豪の扱いの違いなど冷徹な批評精神もある。本誌が昨年読んだ本の中で文句なくベストワンとして推奨できるものだ。本誌がドキリとして特に印象に残った個所を引用させていただく。

「脳性マヒの私は毎日毎日いろんな人に、有形無形の励ましを受けていると思う。殊勝気を起こしてできもしないのにウォーキングと称して近所のバス停まで歩けば、腰の曲がった名前も知らないおばあちゃんに『気をつけなさい、転ばないでね』と言われる。私に負けず劣らずおぼつかない足取りなので、そちらこそお気をつけて、と思いながら先を急げないので心だけ急ぐ。うん、いい人だ。

 こういう人に会うとその日は一日中吉日のような気になってくる。

 一方で、この人はお先真っ暗なんじゃないか、という人に出会うときも、ままある。

『障害は害ではないから障がいと表記すべきだ』『碍が当用漢字から漏れた時の当て字が害だから本来の使い方ではない』『障害者にマイナスイメージを植え付ける』とか『障害は個性なんだよ』って悟りでも開いたのかご親切に解説してくれた人は今までゴマンといる。

 じゃあ何、糖尿病も癌も個性なの?障害は障害にしかなりえないと身をもって知っている私に向かって、聞こえの良いごまかしの言葉なんか要らないのに。障害から目を逸らして励ましたつもりになれる人が信じられない。

 個性っていう言葉で置き換えてごまかして、平仮名にして満足してるのってずるいと思う」

「私はどんなに頑張ってリハビリしても何しても、何をどう捻っても一生障害者なんだ、と思うと悲しいけど、それを言ったところで楽しい気持ちになる人はいない。

『人が楽しくならない話はしてはいけない』というのが寺本家の家訓である。父も母もそれを実践してきたし、私もそう教わってきた。

 だから障害者の明るさをいっぱい知ってほしい。暗い面を伝えるのは苦労話と涙の訴えが好きな人に任せておけばいいんだから。人を楽しくさせる存在でありたい。英語では悲観的になって楽しい場を盛り下げる人のことをウェットブランケット、つまり濡れ毛布と呼ぶけれど、私は自分の中の意気地なしのウェットブランケットを楽しくふわふわにして、闘牛士の赤マントみたいに楽しく振り回して生きていきたい」

この本を読むと、留学先のオーストラリアで、障害のある体を恨んだり卑下したりせず、明るく前向きに生きるらららさんの大らかさが伝わってくる。

ふるきゃらが解散して、寺本さんは一人になっても人を楽しませたいという精神は少しも揺らいでいなかった。地域を元気づけるために何か心が晴れやかになるようなイベントをしたいと考えているところがあったら、寺本さんに相談してみてください。

人前で歌ったことのないお年寄りも小学生も見事な役者や歌手に変身させてくれ、そのうえ作詞作曲、衣装から大道具小道具、一人で何でもやってしまう、実に経済的な人でもあるのである。きっと地域に爽やかな風を吹かせてくれるに違いない。

■「矢鱈面白LABO TERAKOYA」
〒116-0002東京都荒川区荒川2-4-4 St・マンションSPACE102
メール:mana.la3t@hotmail.co.jp
lalalaofficeの祖父江真奈さん宛。

(おわり)

『かがり火』定期購読のお申し込み

まちやむらを元気にするノウハウ満載の『かがり火』が自宅に届く!「定期購読」をぜひご利用ください。『かがり火』は隔月刊の地域づくり情報誌です(書店では販売しておりません)。みなさまのご講読をお待ちしております。

年間予約購読料(年6回配本+支局長名鑑) 9,000円(送料、消費税込み)

お申し込みはこちら