編集後記(最終回)

『かがり火』は発行部数は少ないといっても雑誌には違いないので、差別語や不快用語には気を使ってきた。私がうっかり「片手落ち」と書くと、校閲担当者は容赦なく「不公平・不平等」などと書き換える。何もそんなところまで書き換えなくてもいいじゃないかと思うこともあるが、専門家の指摘には素直に従っている。

いつのころからか「百姓」という言葉も差別語になってしまった。農業に従事しているご本人が、“われわれ百姓は…… ”と言うのは問題がないが、一般的に第三者が百姓と書くことははばかられる。いったい百姓という言葉にいつのころからネガティブな意味が付与されてしまったのだろう。

子どものころ東映の時代劇に夢中だった。中村錦之助、大川橋蔵、片岡千恵蔵、月形龍之介、東千代之介、大友柳太朗、市川右太衛門……今でもスターの名前を次から次と挙げることができる。時代劇に出てくる百姓は大抵お代官さまに虐げられた惨めな人たちだった。

『水戸黄門』『座頭市』『木枯し紋次郎』に出てくる百姓も悪代官に年貢を取り立てられ、飢饉に苦しみ、生活に困窮している。学校では「士農工商」を習い、百姓は武士の次の位と教わったが、とてもそのようには思えなかった。

『七人の侍』を見ても、志村喬や宮口精二や稲葉義男など野武士と闘う侍に感動しても、左卜全や藤原鎌足が演じた百姓にシンパシーを感じる人は少ないだろう。

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『かがり火』を創刊してから、なぜ過疎が生まれたのか、なぜ地域が衰退するようになったのかを四六時中考えるようになった。高齢化・少子化、産業の空洞化、グローバル化など、どんな要因を聞かされても腑に落ちなかった。いつもなぜが頭から離れない。いったい中学生のころ農業・農村をどんなかたちで学んだのかを知りたくて、江東区千石にある独立行政法人教科書図書館を訪ねた。ここには戦後の小中高のすべての教科書がそろっている。

私が中学生だった昭和31年から33年までの社会科の教科書をめくって感じたことだが、明らかに農業・農村を軽んじている。農業に誇りを持てるような記述は見当たらない。

昭和31年度の『中学生の社会 現代の生活 上』(日本書籍)を手に取った時は驚いた。この教科書には農村医療を確立した著名な医師、若月俊一氏の著作の一部が引用、掲載されていた。

「つい、このあいだのことである。骨と皮ばかりにやせほそったむすめさんが、外来診察室にだきかかえられてきた。診断してみると、結核性の肋膜えんと、腹膜えんだった。いったい、こんなになるまで、なにをしていたのだろうというと、『じつは祈祷師にかかっていたが、どうしても、うまくいかなかった。』という。『栄養はとっていたの。』ときくと、じつは祈祷師がたべさせなかったという。『患者のからだから、悪しきをはらうのだから、ぜったいに栄養をとってはならぬ。』というのだそうだ」

そしてこの文章の下に、囲炉裏端で祈祷師にお祓いを受けているカット写真が掲載されていて、ご丁寧にも「こんなことも、おこなわれている」というキャプションが付いていた。

江戸時代の話ではない、戦後10年たった日本の話である。この時代、確かに日本の農村山村のどこかでは祈祷師が活躍する土地があったかもしれないが、わざわざ教科書で紹介する必然性があっただろうか。ちなみにこの教科書を編纂したのは文部大臣もやった安倍能成氏である。

他にも第1回の芥川賞を受賞した石川達三の『蒼氓』から、昭和の初頭、不況のどん底におちた農民たちが、ブラジルに移住するさまを描いた一文が引用されていたり、島木健作の『生活の探求』から、次の一文が引用されている。

「水をめぐる争いは、しだいにふえていった。駒平は、しみじみとなげいて、駿介に語った。『水は、おそろしいもんじゃ。兄弟を他人にし、隣どうしを敵にする。いっぽうに水がはいり、いっぽうにはいらなんだら、はいらなんだほうは、はいったほうが、ただもう、にくうてにくうてならんのじゃ。』」

勉強の好きな生徒も嫌いな生徒も、このように農村の封建制、後進性を突き付けられたら田舎には残りたくない、一日も早く都会に出たいと思ったに違いない。

反対にアメリカやソ連の農業についてはコンバインや飛行機での薬剤散布の写真が掲載されて美化されている。

「日本の農業経営は、アメリカやソヴィエトのように、大型の機械を使っている大農経営ではない。稲作中心の農業、せまくて、しかも不規則に分散している耕地、経済力のとぼしさなどという、とくべつの条件をもっている。そこで、日本の農業にあった機械化も、考えられている。」と書かれていた。当時の教科書は明らかに日本の農業は遅れているという上から目線で書かれていた。

「未必の故意」という法律用語がある。犯罪の実現を確定的に認識していなくても、そうなるかもしれないという結果を認容している場合、未必の故意に当たる。この教科書が農業をつらくて厳しいものと記述することで、結果的に子どもたちが地方を脱出し過疎を招いたとすれば、「未必の故意」に当たるのではないか。

このころは教科書だけでなく、世の中すべてが都会は新鮮でおしゃれで、エネルギーに満ちあふれているが、田舎は遅れていてダサくて沈滞しているというイメージだった。

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こんなこともあった。

小学校3年生のころだったと思う。ある日、担任の女性教師がこれからは秋田弁を使うのはやめましょうと言いだした。そして児童全員に方言カードというものを配った。秋田弁を使ったら、それを指摘した友だちに1枚取り上げられ、全部なくなったら、文化大革命の紅衛兵の吊るし上げのように、「僕は秋田弁を使いました」という画用紙で作った看板を首からぶら下げられるという罰則があった。そのころ秋田弁を使わないで友だちと会話はできなかったから、みんな押し黙るようになった。私のカードはすぐなくなった。

トンガリ帽子こそかぶらされなかったけれど屈辱だった。こういうことは教師の一存でできるものなのだろうか。方言に対するコンプレックスは体の奥底に染み込んだ。テレビ放送が開始されたのが昭和28年である。標準語を普及させようという動きと連動していたのかどうか分からない。テレビ放送が始まった時代は、これでもかこれでもかと田舎を貶めた時代であった。若者を労働力として都会に集め、輸出産業を振興し、農業を軽視した時代だった。このころから過疎化の萌芽があったのだから国策の失敗と断じられても仕方がない。

日本では過ぎ去ったこと、終わったことについて失敗の原因を追及する人は嫌われる。過去のネガティブな出来事はきれいさっぱり忘却する人は潔い人と言われる。しかし地域の衰退は個人のケアレスミステークではない。あらゆる手段を行使して国民を宣撫し、戦争に突入したと同じ国家の愚策の結果である。物事の本質を検証しないでは同じ失敗を繰り返すだけだろう。

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創刊以来一度も病気をしたことがなかったのに200号で休刊すると決めた一昨年の秋、小腸血栓の疑いで入院した。そして昨年、コロナの緊急事態宣言を掻いくぐって最終号の準備を進めていた10月に心臓に異常が発見されて手術する破目になった。長年、締め切りに追われていた人間が緊張感から解放されると体に変調を来すとは昔から言われていることだが、私の場合も当てはまってしまった。精神的には今までどおり平常心でいたつもりだが、体のほうが正直に反応したらしい。

順天堂大学医学部付属順天堂医院B棟11階に入院した日、インフォームドコンセントというのか担当医師から心臓の模型を使って手術の詳細な説明を受けた。冠動脈バイパス手術というのは今ではかなりポピュラーなものになっているらしいが、それでも5000人に20人の割合で事故はあるという。このパーセンテージを聞いてなぜか安心した。くじ運は昔から弱く、歳末大売り出しの抽選でも当たったためしがない。20人の側に入るのは難関なのでまず大丈夫だと確信した。

不安はなかったけれど、同意書にサインを求められた時は血圧が少し高くなったかもしれない。

「私は(冠動脈バイパス術、左心耳切除術)について、説明書に基づき、担当医師から十分な説明を受け納得しましたので、治療を受けることに同意いたします。医療中に緊急処置の必要が生じた場合、適切な処置を受けることについても承諾いたします」

手術だけでなく、麻酔や術後鎮痛法など考えられるあらゆる場面に対応した同意書に署名を求められた。大丈夫とは思っていたけれど何しろ心臓である、医師の想定を超える突発的な事態が発生しないとも限らない、病室に横たわっているとさまざまな不安が駆け巡る。

手術は麻酔が効いているから何も分からないうちに終わって、気が付いたら集中治療室に移されていた。術後3日目までがつらかった。手術した個所から胸水を抽出するためにドレインという管を2本付けられ、24時間対応のポータブル心電計を胸に張り付けられた。不整脈が出たりするとナースステーションのモニターで分かるようになっている。腕には点滴、胸にはドレインと心電計、寝返りを打つと管が絡んでしまうので行儀よく寝ていなければならない。

手術の傷痕の痛みに耐えていたころ向かいのベッドに新しい患者が運ばれてきた。かなり苦しいらしく、カーテン越しにうめき声が聞こえてくる。看護師さんが病室に巡回に来るたびに“苦しい、苦しい!”と訴えている。そのうちにあろうことか、「死にたい」と言いだした。4人部屋だから何でも聞こえてくるのである。その方は、自分なんか生きていても何の価値もない、自分が死んでも誰も悲しまないと言って嘆いているのであった。かなりつらい人生を送ってきた方のようである。看護師さんが必死で慰めている声も聞こえてきた。

どんな人生を生きた人でも最期は多少なりとも後悔の念はあると思うけれど、死にたいとはただ事ではない。その方の愁嘆に比べてこちらは不思議なほど平静だった。傷口は痛いけれど誰かに守られているような安心感、先に逝った人たちの祖霊に包まれているという感覚だった。

病院では時間が長い。食事とトイレ以外にはすることがない。昼もうとうとするから夜眠れない。テレビをつけてみるけれど面白くないのですぐ消した。手術の傷口が痛くて読書にも集中できない。有り余る時間をこれまで付き合ってきた人たち、亡くなった人たちも含めていろいろな人のお顔を思い浮かべることで消化した。

一昨年9月に亡くなった掛川市の支局長だった鈴木武史さんのお顔が何度も浮かんだ。195号で鈴木さんが生前ご自分で用意した「本日は私鈴木武史(S32.9.12生.62歳)の葬儀にご会葬下されありがとうございました」という会葬御礼を紹介したけれど、最後までユーモアのある人だった。

鈴木さんは私利私欲がなく、自分の住む遠州横須賀を愛し、毎年4月の三熊野神社大祭では血の騒ぐ人だった。私は、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が口を衝いて出てくる時、きっと鈴木さんを思いだす。亡くなってから、生きている人の心を瞬間的にでも温かい気持ちにさせるとしたら、その人は十分過ぎるほど価値ある人生を送ったと言えるのではないか。

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昨年12月、日本銀行が家計の金融資産というものを発表した。企業の内部留保が増えていることは知っていたけれど、個人のお金が1999兆8000億円も蓄積されていることは知らなかった。富裕層と付き合いがないから知らないが、このお金を持っている人の63%が60代以上の人だという。世の中にはお金持ち父さんは意外に多いのだ。反対に若い人たちに資産ゼロの人が増えているという。

若い時は苦労しても年老いたらそれなりに安定するというのなら納得できる社会だが、どうもそうではないらしい。親から受け継いで資産を持っている人はずうっと豊かで、遺産らしきものは何もない人はずうっと貧乏という社会に固定されてしまったようである。パンデミックで青息吐息という人は多いのに、金持ち父さんたちの預金通帳の残高は着実に増えているらしい。現預金だけでなく株式も投資信託も増えているということは、「失われた30年」というのはうそだったということになる。

富裕層の持っているお金が「温かいお金」ならば、いかに赤字国債が増えようとも心の隅っこに安心感が生まれる。しかし、ビタ一文でも赤の他人にはやりたくないという精神の持ち主だけならば、 家計の金融資産はいかに増えても何の意味があろうか。富裕層の中にも困っている人に手を差し伸べようという人はいると思うけれど、落語の「黄金餅」に出てくる西念のように二分銀を餅に包んで呑み込んで死んでしまうような人ばかりだと世の中は真っ暗闇だ。トリクルダウンが少しも貧乏人に滴り落ちてこなかったことを思えば、金持ち父さんたちにはどうも期待できそうもない。

本誌の読者には海外に別荘を持っていたり、外車を2台も3台も所有する人はいないようだけれど、「温かいお金」を使いたいという人は多い。取材でお目に掛かった人たちは慎ましい生活で蓄えたお金を見返りを求めず地域づくりや新しいビジネスを起こそうという若者に投資していた。

『かがり火』最終号を出した後をどうするのかという読者の皆様からの質問が多い。私は「温かいお金」を使って、社会の役に立って死にたいと考えている高齢者の思いを再結集した『種火マガジン』のようなものをひそかに考えている。大きな炎は燃やせないが両手を丸めて風除けをつくり、小さな種火をふうふう吹いて育てたいと思っている。パソコンやスマホを操作するのは苦手だがSNSはもはや無視できないと観念した。昨年からZoomを使用して、オンライン支局長会議を開催しているけれど、予想以上の成果を上げている。これからの時代は文字媒体と電子媒体の組み合わせは必須のようである。

『かがり火』といましばらくお付き合いただける方は、kagaribi.sugawara@gmail.com にご連絡いただきたい。パソコンをお持ちでない方は、〒101-0065 東京都千代田区西神田2-5-5『かがり火』編集部にはがきでご連絡ください。アナログ会員として登録させていただきます。

現在の編集部のある事務所を閉鎖する予定ですので、4月末日までにご連絡いただければ幸いです。発行回数や年会費など具体的な内容はすべて未定ですが、皆さまのお知恵と労力もお借りして、同士的つながりで『かがり火』ネットワークを維持したいと考えています。もちろん今号で『かがり火』から卒業したいという方は本当に長い間お世話になりました。あらためて感謝を申し上げるとともに、これからのご活躍を切にご祈念申し上げております。

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最後になってしまいましたが、 売上や集客につながらないにもかかわらず、本誌に広告を出してくださった馬路村農業協同組合、サラダコスモ、白金の森、兵庫確認検査機構、天山、伊那食品工業の各社には本当に有り難く心から感 謝申し上げます。

編集委員、支局長の皆さまのご協力も本誌の発行には不可欠でした。一人ひとりお名前を挙げる余裕はありませんが、西村一孝支局長には営業部長的な役割を果たしていただきました。

役員を引き受けてくれた松本克夫、船木耕二、水野俊哲の三氏にも本当にお世話になりました。

この三人がいなかったら本誌は129号で終わっていただろうと思います。

最後の最後になってしまいましたが創刊以来、校閲を担当してくれた中村修二君と事務経理一切を取り仕切ってくれた中村裕明君にも心からお礼を申し上げたい。

この二人がいなかったら『かがり火』はなかった。(K.S)

かがり火 No.200 令和4年2月25日発行
発行 合同会社かがり火
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☎ 03-5276-1051
E-mail:kagaribi.sugawara@gmail.com
    :kagaribi@ruby.famille.ne.jp

発行人:菅原歓一
編集人:内山 節
印刷:株式会社サンセー

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(おわり)