いま多くの日本人は波打ち際に立っているような感覚を味わっているのではないか。寄せくる波が少しずつ足元の砂を浸食し、立っていることが不安定になってくる。あるいは健康診断で引っかかり、医師から、精密検査をする必要があると告げられた時の漠然とした不安─。
国民が納得できないままに次々に強行採決される重要法案、海外では右翼勢力の台頭、頻発するテロ、安定しないトランプ政権、このような動きをどう理解すればいいのか。昨年秋から講談社のウェブマガジン『現代ビジネス』に掲載されている哲学者・内山節の論考は、世界の動向を分析して明快である。
哲学者はいま、国家は次第に意味を失い、有効性が薄れ、虚無化に向かっているという。この状況を、国家が黄昏に向かっている時代と表現している。国家が“たそがれる”とはどんなことか聞いた。
【『かがり火』発行人・菅原歓一】
※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』175号(2018年 6月 25 日発行)に掲載されたものを、WEB用に若干修正したものです。
国家の成立には根拠がない
── 多くの懸念を表明されているにもかかわらず共謀罪(組織的犯罪処罰法改正案)が強行採決されました。2014年には解釈の変更で集団的自衛権の行使を容認、特定秘密保護法も成立しました。2015年には安全保障関連法案なども成立させています。何やらますますヤバイ感じがしますが、この動きをどう見ればいいのでしょうか。
内山 安倍さんは強い国家を目指しているのだと思います。あくなき経済成長と軍事体制を整備することで強い国家をつくろうとしているのだと思います。しかし私は、経済力と軍事力で強い国家がつくれるとは思いません。
例えば昭和初年代、日本は強い国家をつくろうとしました。国民は天皇の赤子として位置づけられ、天皇のために命を捨てることが最大の親孝行であり、国民の美徳であるとされ、皇居遥拝が義務付けられ、皇民化教育が強化されました。
そして日本人はアジアの人々を欧米の支配から解放する任務を持った優れた民族であるとされました。国内的にも対外的にも日本が日本である根拠を明確にしたのです。
それは一瞬、すべての国民が一つの方向性に向かって団結する強固な国家をつくったかにみえましたが、しかしわずか20年もたたないうちに、国家は崩壊したのです。
根拠の明確化、強い国家は結果的に弱体化を招いたのです。なぜこんなことが起きるかといえば、国家の強さはその無根拠性にあるからです。根拠の明確化は、国家が誕生したそもそもの原理に反するのです。
── 国家は無根拠性を基盤にした創造物というのは、どんな意味なのでしょうか。
内山 例えば律令制を整備する過程で、日本の支配層は、日本という国家を形成しようとしました。その動機は支配権の確立であり、中国とも朝鮮とも違う自立した支配圏をつくりだすことにあったのです。
つまりそれは、どのような統治権を確立するかという問題であり、その推進が国家を生み出しただけなのです。国家自身の成立に根拠があったわけではありません。統治権の確立が、結果として国家を生み出したのであって、国家自体は無根拠性の上に成立しているのです。
── 国民が国家が必要だからつくろうと思ってつくったのが国家ではないということですね。何か物足りない感じもしてしまいますが。
内山 繰り返しますが、国家は支配権の確立が結果的に国家になったのです。江戸時代になって武家国家が生まれますが、これもまた幕府による統治権の確立が日本という武家国家を生み出したのであって、国家自体はやはり根拠なく形成されています。
明治になって日本は中央集権国家として近代国家を形成する方向に向かいますが、やはり国家自体が近代国家をつくる根拠を持っていたわけではないのです。国家は本質的無根拠な成立物なのです。
これは外国の国々でも同じです。私たちは成立したものの内部で暮らしているから、根拠があるかのように感じるだけなのです。
── 国家の無根拠性が国家の弱体につながるという意味ではないのですね。
内山 無根拠性は国家の弱さを意味しているわけではありません。むしろ逆に、そのことに国家の強さがあるといってもいいでしょう。根拠があって生まれたものは、その根拠が崩れれば存続する理由がなくなる。
ところが根拠なく生まれたものはある種の超越的基盤を持っている。根拠を超えているという超越性です。となると、国家はその根拠を明確にしてはいけないものだということになります。むしろ曖昧性を持っていなければならないのです。
そして曖昧なものである以上は、衰退していくことがあるとしても、それもまた曖昧に進むことになるのです。逆に言えば、国家に明確な根拠をつくろうとする試みは、国家を弱体化させることになるのです。
── 日本は神武天皇以来、世界に冠たる天皇を戴く、優秀な民族と言いたい人たちにはちょっと不満な話かもしれませんが、これで戦後の日本はうまくやってきたのですね。
内山 戦後の日本がうまくいったのは国家の根拠を曖昧なままにして、経済中心にやってきたからでしょう。経済が戦後日本の根拠だったといってもいい。
国家に根拠を求めない時代をつくりだし、その雰囲気にある程度政治が対応することによって、無根拠性がつくる強靭さを成立させていたのが戦後の日本だったといってもいいと思います。
このように考えると、いまの政権は逆の政治を進めようとしていることになります。なぜ憲法九条を改正したいのか。それは国家の姿を明確化したいからでしょう。なぜ国家への忠誠心を高めようとするのか、国家があっての国民であることをはっきりさせたいからでしょう。
国家としての日本の根拠の明確化を成し遂げなければ戦後レジュームからの脱却はできないと考えているようですが、この道は国家の弱体化でしかないのです。
繰り返しますが国家は根拠があって生まれたものではないゆえに、無根拠性という強さを最大限に生かすことでしか、持続的国家はつくれないのです。このような視点からみれば、今日の世界は国家の黄昏に向かっているように見えるのです。
── 日本がアジアの盟主たらんとしていたころ、ヨーロッパではドイツがゲルマン民族こそ世界一優秀な民族であると宣言していましたね。
内山 日本と同じことがドイツやイタリアのファシズム政権下でも起きました。ナチズムが目指したのはゲルマン民族国家の根拠の確立で、優秀なドイツ民族が世界秩序を確立するということでした。だがこれも20年もたたないうちに崩壊したのです。
ドイツ、イタリア、スペイン、日本のファシズム政権が指向したのは根拠を明確にした「強い国家」をつくることです。国民を一つの政治的潮流の下に統合し、政治、社会、経済などあらゆる分野で国民総動員体制がつくられていきました。
しかしこれは「強い国家」だったのでしょうか。「強い国家」があるとすれば、それは持続性のある国家でなければなりません。この視点で見れば、ファシズムは「弱い国家」を生み出したにすぎません。
日本は明治になってひたすら西欧に追い付こうとしましたが、ひたすら「弱い国家」をつくったといってもいいのです。その弱さは日露戦争によって拡大され、昭和に入るとさらに高められていったのです。
強いということは持続するということなのです。いっとき売り上げを伸ばして大企業化してもたちまち経営危機を迎えるような企業は、強い企業とはいえません。持続的な友人関係にあることが強い友人であり、経済的な危機に直面しても維持できる家族が強い家族です。
国家と電気の歴史は変わらない
── この先も日本で無事な暮らしが維持できるか不透明で、不安な気持ちを抱きながら暮らさなければならないとすれば、そもそも国家とは何なのだという疑問も起きてきます。
内山 私たちは国家がないところで暮らすということは考えられませんが、国家の歴史はせいぜい電気の歴史と同じくらいなんです。今日の私たちは電気のない生活など考えられません。
ところが長い人類史のなかでは人間が電気とともに暮らしたのはせいぜいこの100年間くらいのことであり、何をするにも電気が必要な生活をするようになってからは、まだ50年くらいしかたっていません。
国家も同じような面を持っていて、50万年近い人類史をみれば、国家のない社会で人々が生きていた時間の方が圧倒的に長い。日本で国家の形成が始まるのは律令制に向けた整備が始まるころで、冠位十二階の制定あたりを起点としてもまだ1500年もたっていません。
それ以前の「日本」は権力者が発生してから以降も、豪族たちが存在していただけであって、「日本」という国家が意識されていたわけでもなかったのです。律令制の整備が進められてからも、国家を意識していたのは支配階級の人たちだけで、普通の庶民たちにとっては国家は縁のないものでした。
江戸時代の日本人は自分の暮らす地域を「くに」と表現していたのです。それも確定された地域のことではなく、遠方の人たちに対しては藩を「くに」と言ったり、同じ藩内の人に対しては自分の暮らす村や町を「くに」と言っていたのです。
明治時代に入っても、多くの人たちにとっては国民意識などなかったんです。それが芽生えてくるのは日清戦争以降であり、定着したのは日露戦争のころです。現在の私たちは日本国民であることを意識して暮らしていますが、その歴史は電気の歴史とあまり変わらないのです。
電気のない生活を経験した人がほとんどいなくなったように、現在の人間たちは国家のない暮らしを経験したことがないから、国家は絶対的に必要な基盤のように感じるわけです。
もし電気に代わる便利なエネルギーが開発されれば、次第に電気が衰退していくのと同じように、国家が必要とされない時代や、国家の下で暮らすメリットよりもデメリットの方が大きい時代が生まれれば、国家もまた衰退に向かうかもしれないのです。
選挙で絶対的権力を得る民主王朝制
── 世界を見渡せば、どの国も問題が大ありですね。アメリカは一体どうなるんでしょうか。
内山 トランプは典型的な扇動政治家だと思います。トランプは常に支持者に頑張っている姿を見せなければ支持が長続きしないでしょう。ツイッターで情報をひっきりなしに発信し続けるのもそのためです。
いまの選挙民は飽きっぽいですから、自分たちの期待する政策をしてくれないなら、簡単にそっぽを向いてしまう。だから、メキシコとの境に壁をつくるぞ、テロリストの疑いのある者は入国させないぞ、パリ協定は離脱しても雇用は増やすぞ、シリアは空爆してISを叩きつぶすぞと叫ばなければなりません。
これは安倍さんにも通じることで、支持者の関心をつなぎとめておくために、アベノミクスで景気を浮揚させるぞ、GNPは600兆円を目指すぞ、東シナ海では一歩も引かないぞ、少女像の撤去を強く求めていくぞ、北朝鮮のミサイル発射には断固抗議するぞ、働き方改革で長時間労働はなくすぞ、一億総国民に活躍してもらうぞと、次々にテーマを持ち出しています。
絶えず扇動をし、頑張っている姿を見せ続けなければならないからです。
── いま安倍政権は選挙で圧勝したことで何事にも強気です。獣医学部の新設で疑惑を持たれても「記憶にない」と突っぱねています。独裁に近いような現象を先生は「民主王朝制」という言葉で表現していますね。
内山 独裁権力を確立したナポレオンもヒトラーも選挙によって選ばれていることを忘れてはなりません。しかし、民主的な方法で権力を確立しましたが、生まれたその権力は民主的なものとは程遠いものになったので「民主王朝制」と名付けました。
逆に古い領主権力など特定の階級、階層を基盤にして成立した「王朝民主制」というかたちもあります。安倍政権は民主王朝制と呼んでもいいかもしれません。
アメリカのトランプも大統領令の連発やツイッターで過激な発言をするのを見ていればあたかも絶対権力を持つ民主王朝制の大統領になろうとしているかのように見えます。しかし、いまやトランプは彼を支持する人たちの大統領であり、全人民の大統領になる基盤は失われています。
そうである以上、彼を支持しない人たちとの間で軋轢を生み続けることになります。この対立がある限り、民主主義は維持されるともいえるわけであり、民主王朝制が生まれた結果、民主主義が維持されるということにもなります。
── 混乱しそうなロジックですが冷静に考えると、なるほどと納得できます。
内山 分かりやすいのは韓国です。選挙で選出される大統領はあたかも王朝の王様であるかのごとく一族や側近を優遇し、近づいてくる資本家に便宜を与えています。まさに民主王朝制です。
だか政権が交代すると敗北した王朝のように不幸な日々を迎えることになる。こういう構造だから、王朝は必死で権力を維持しなければならない。選挙で負ければみじめになるだけだから、国民の意思に迎合し、国民を扇動することが必要になってきます。典型的なデマゴーグ政治が発生することになります。
ポピュリズムは大衆迎合ですが、デマゴーグは人々の支持を得るためには何でもやる扇動政治家のことです。
── 選挙に勝ってしまえば王朝制のように何でもできるというのは、民主主義の欠陥でもありますね。
内山 そうです。近代になって生まれた政治制度にはこのような問題が付きまといます。大統領制であれ議院内閣制であれ、選挙で勝ってしまえば強大な権力を手に入れることができるのです。
三権分立が行政を監視できる建前ですが、理想どおりに展開したことはないでしょう。司法の独立が十分に機能している国を探すのは困難なほどです。選挙で勝つことで大きな権力を手に入れることができるゆえに、ポピュリズムやデマゴーグが跋扈することになるのです。
しかし、これは民主主義の危機というものでなく、民主主義が持つ属性だと考えたほうがいいと思います。
── 中国は選挙がありませんから、反対の王朝民主制と呼べばいいのでしょうか。
内山 中国は独裁権力を維持しうる範囲で民主的な制度を取り込んでいます。ある程度民主的な制度を取り入れないと独裁権力を維持できないからです。
いまの世界は王朝民主制と民主王朝制の二つの構図の中にとらえることができると思います。民主王朝制にはソフトな民主王朝制とハードな民主王朝制があり、ハードな民主王朝制には批判を許さない独裁権力としてのナチス・ドイツがあったということです。
自由な批判が許されている国でも批判する過程で民主主義が機能しているだけで、政治権力としては巨大な権力が維持されていることに変わりはありません。
かつてマックス・ウェーバーは、国家は暴力を独占することによって機能していると言い、だからこそ政治家には高い倫理性を求めていました。完全な民主主義などないのですから、私たちに突き付けられている課題は民主主義が民主王朝制を生んでしまうことをどう克服するかということになります。
この問題が克服されない限り、私たちはソフトな民主王朝制の下で管理されるか、ハードな民主王朝制の下で縛られるかという選択しかなくなってしまいます。このことがみえてきた時代のなかに、私は黄昏れる国家の時代を感じています。
さまざまな文明、文化、価値観を認めること
── 先生はよくフランスにいらっしゃいますが、ノートルダム寺院でテロがありました。その前は、ロンドンやマンチェスターでも発生しています。ちょっと心配ですね。
内山 私はノートルダムのような観光客が行くようなところには近寄りませんが、ベルヴィルというアラブ人街のほうには35年前から足を運んでいます。
初めてこの街に足を踏み入れた時は、いまにも崩れ落ちそうな3階建ての建物が立ち並んでいました。ここは1960年代に労働者不足を解消するために呼び寄せられた外国人労働者が居住する街でした。
しかし、1980年代に入るとパリ市は問答無用で建物を取り壊し、再開発を始めたのです。旧住民は新しいアパートに優先的に入れることにはなっていたのですが、家賃が高くて住めません。ほとんどのアラブ人は郊外に追いやられるかたちで散り散りになってしまったのです。
過酷なのはパリで生まれた二世たちで、彼らが就職しなければならないころは高度経済成長も終わって就職は容易でなくなり、失業することになってしまったのです。いま日曜日には、かつての住人たちが古い顔なじみを求めてこの街に集まってきて路上で立ち話をしています。
── その地区は危ないことはないのですか。
内山 フランスの友人はベルヴィルには近づかないようにと忠告してくれるのですが、一度も危険な目に遭ったことはありません。むしろ観光客が集まる地域に泥棒なんか多いんです。
街角にたむろしているアラブ系の人たちはフランスで生まれた人たちで、両親の故郷には一度も行ったことがなく、アラビア語も話せません。彼らはフランスで生まれフランスで育ったのに、まともな仕事にありつくことができません。こういう環境からISに感化される人が生まれるのでしょう。
── ということは、これからもテロは続くということでしょうか。
内山 簡単にはなくならないと思います。私はヨーロッパは二つの間違いを犯したと思っています。植民地政策と移住政策です。第一次大戦後、フランスやイギリスはアラブを植民地にしました。国境も定かでなかった土地に、自分たちの都合のいいように強引に国境をつくったのです。
この植民地政策の清算が済んでいないという不満は、いまもイスラムの人たちは根強く持っているのです。テロリストを生み出した温床は欧米であり、そのことを解決しようという姿勢がない限り欧米社会とその同調国に対する攻撃はさまざまなかたちで繰り返されるだろうと思います。
世界にはさまざまな文明、文化、価値観があることを率直に認めることが問題解決の出発点なのです。
大きな時間幅で考えないと理念は生まれない
──ちょっと話題を変えて、地方創生についてお尋ねします。本誌がまちづくりを取材していて気が付くのは、地方自治体中心の地方創生のプランはどこも同じようなものだということです。
内山 今から18年ほど前、群馬県の「新総合計画」の策定に加わったことがありました。その時、参考にするために各県の「計画」を読んだのですが、どこの都道府県も同じような内容でした。
先端産業の育成とか、高速交通網、高速通信網の整備、子どもたちの生きる力を育むとともに、自然と共生する県づくり、弱者に優しい県づくりなどが並んでいました。どうして同じような内容になるのか、それは5年計画であるところに理由があると気が付きました。
どの都道府県でも5年計画だと当面の課題を列挙することになり、同じようなものになってしまう。この時、群馬県は5年計画をやめ、100年計画に変更しました。100年後というと、いま生まれた子や孫が最晩年を迎えているころです。子や孫が年を取っても困らない群馬をつくるにはどうすればよいのか、それを考えの柱に据えました。
計画期間を5年から100年に延長してみると、「つくる」計画が意味を持たなくなってしまうんです。例えば100年後にどんな交通手段や通信手段が用いられているのかが分からないのだから、高速道路をつくるなどと言っても意味がない。
100年後の社会の姿が分からない以上、「つくる計画」は立てようがない。その代わり「残す計画」を作ることにしました。社会がどんなに変わっていても、これだけは残しておかないといけない、そういうものをしっかり計画に織り込もうとしたのです。
どんな社会になっても自然は残しておかないといけない。二次三次産業は変わっていくだろうけれど、農業などの一次産業はしっかり残しておかないといけない。
どんな社会になっていたとしても、コミュニティーや本物の地域自治のかたちも残さなければいけないし、何よりもさまざまな課題に対して考え続ける風土を残さなければならない。100年計画の理念を提起して策定したものが、この時の「新総合計画」です。
重要なのは、どんな時間幅で物事を考えていくかということです。大きな時間幅で考えると、見える世界が変わってきます。
ところが今日の政治や経済は極めて短期間の、いわば目先の利益ばかりを追っているようにみえます。100年後にも人々が平和を享受できるようにするにはどうしたらよいのかというような発想がない。
100年後も通用する憲法の役割を考えるのではなく、解釈の変更だけで事実上の憲法改定をもたらそうとする。経済と社会の関係を考えることもなく、「成長戦略」と称して、原発の再稼働と輸出、武器輸出、カジノの建設、法人税減税などを進めようとする。
行おうとしていることは当面の政策でしかないのです。これでは将来の社会に対する理念がなくなってしまいます。もっと長い時間幅で考えなければ理念は生まれません。
── 大きな時間幅で考えるということは、都市に住む人よりも田舎に住む人のほうが得意のような気がします。
内山 私が住む群馬県上野村は、人間が住み始めておそらく2千年ぐらいたっていると思いますが、あまり大きく変わっていないと思います。表面的にはいろいろ変化はしていると思いますが、自然と人間とのつながり、村の人たちのつながり方、奥にある骨格は変わっていないと思います。
その間に国のかたちがどれだけ変わったのか考えれば、上野村のほうがはるかに持続性があるということです。
── 本誌の取材で出会う人々も国家に頼らず、目先の利益に惑わされず、長期的視野でまちづくりを行っている人が多く、日本の地域の強さを実感しています。このことが結果的に持続性のある国づくりにつながっていくことを願っています。それにしても『現代ビジネス』では、いまの政治にずいぶん踏み込んだ発言をされているように思いました。
内山 こういう状況ですから、いま発言しなければいつ発言するんだという気持ちで書いています。
── このところ梅雨空のようにうっとうしい気分でいたものが『現代ビジネス』を読んで、青空を垣間見たように少しすっきりしました。本日はありがとうございました。
<一日の訪問者30万人>
【川治豊成(講談社第一事業戦略部 部次長兼現代ビジネス編集長) 】
2年前から『現代ビジネス』を担当しています。その前は現代新書の編集部におりまして、内山先生の『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』を出版しました。3万部出ていますが、いまも重版が続いています。
ウェブマガジンに異動してきて驚いたのは、アクセス数の多さです。『現代ビジネス』のサイトへの訪問者は一日約30万人、これはスゴイことになっていると驚きました。1カ月の延べ人数は約900万人と推定しています。
ウェブマガジンには『週刊現代』の政治・経済・社会関連の記事を1週間遅れて掲載しているのですが、紙媒体の読者がウェブにアクセスしてくるのは珍しく、印刷媒体とウェブマガジンの読者は完全に別です。
『現代ビジネス』でこのぐらいですから、ヤフーのトップに掲載される話題は、おそらく何千万という人が見ていると思います。全国紙に掲載される記事よりもはるかに世論形成に重要な役割を果たしていることになります。ちなみに『週刊現代』の発行部数は40万部です。
内山先生の連載は、毎月本郷の喫茶店でお茶を飲みながらお話しさせていただいているなかで出てきたテーマです。ウェブを担当していれば刹那的というか、砂漠に水を注いでいるような気分になるので、今の世界の動きを評論家的にではなく、哲学者の大きな時間幅で見ればこうなるという見方は新鮮でした。
『現代ビジネス』は採算的にはかつかつというところです。基本的には広告収入で運営していますが、できれば1カ月1000円の有料会員(現在2千人)をもう少し増やしたいと思っています。
(おわり)
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