【舞台再訪】かあさんたちの底力—静岡県浜松市天竜区熊「くんま水車の里」の30年

特産品を作って外貨を稼ぐしかない

地区のかあさんたちによる静岡県天竜市(現浜松市)熊の「くんま水車の里」がオープンしたのは1988年だった。

かあさんたちが男性の力を借りず、ソバを栽培し、そば打ちの技術をマスターし、みそやコンニャクを手作りし、五平餅を焼いて都会からお客さんを呼ぼうというプロジェクトだった。

この旺盛な自立精神が評価されて、オープン翌年には農林水産祭「むらづくり」部門で天皇杯を受賞した。本誌が訪問したのはオープンして5年後の1993年だったが、「水車の里」にはかあさんたちのやる気がみなぎっていた。

この素朴な建物が熊の存在を静岡県下のみならず全国にPRすることになった水車の里の食堂「かあさんの店」

あれから24年、果たして「水車の里」はどんな状況にあるのか、わくわくしながら再訪した。

迎えてくれたのは金田三和子さんと大平展子さん、二人は当時の「水車の里」の会長と副会長だった。金田さんは今年75歳、規定により定年になって引退したばかりというが、歳月を少しも感じさせない若々しさだった。

持参した『かがり火』を見て、「あのころは若かったわね」と二人はページをめくってほほ笑んだ。もし、皆さまがお手元に35号をお持ちなら見ていただきたい。五平餅を焼いているおかあさんたちがカラーページで紹介されている。

「いろいろありましたけれど、まあ何とかかんとか続けてやってこれました」と二人は口をそろえる。「水車の里」がオープンしたころ熊地区は全戸で306戸、人口は1205人だった。

現在は245戸で人口は605人、かあさんたちの奮闘が過疎化や人口減少を食い止めることにはならなかったが、それでも周辺の地区と比べれば断然、存在感がある。

「もし水車の里がなかったとしたら、この地区はどうなっていたでしょうか。希望の持てない寂しい地区になっていたでしょうね」と大平展子さん(68)はいう。

かあさんたちの底力のシンボルとなった水車

「水車の里」ができるきっかけになったのは、1985年に開催された「明日の熊を語る会」だった。この集まりで、普通の主婦だった金田さんは普段思っていたことを口にした。

「林業が衰退して、〝このままでは熊は寂しくなるばかり、自分たちで何か特産品を作って都市部からお客さんに来てもらうようにしたい〟と発言したんです」

「熊は天竜市でもいちばん奥にある山の中で、林業が不振になってみんな1時間から1時間半かけて、浜松や磐田方面に働きに出るようになりました」

「若い人は結婚すれば都会に所帯を構えて、熊には戻ってきません。これではますます過疎化に拍車が掛かると思って、何かしなければという思いでした」と、金田さんは振り返る。

「あっという間の30年でした」と語る、金田三和子さん(右)と太平展子さん

金田さんの発言が、かあさんたちのみならず地区住民を刺激し、何か始めようという機運が盛り上がった。

静岡県北遠農林事務所と天竜市役所はまちづくりには補助金のあることを教えてくれた。後述するが、本事業は全て公金で賄われることから、1986年に集落の全戸が加入する「熊地区活性化推進協議会」が設立された。

金田さんの提言に共感する人が増えて、さまざまな夢の盛り込まれた具体的な計画が立案された。活性化推進協議会は積極的に国や県、市と折衝して資金の手当てを検討するようになった。

結果的に言えば、国からは水田農業確立対策事業、中山間地域農村活性化総合事業などで3215万円、県からはふるさと活性化対策事業、農村集落総合整備事業、水と緑のふる里事業など6621万円、市からもふるさと活性化対策事業など8620万円が投下された。

地元負担金としての4292万円は熊財産区より供出された。本誌が訪ねた1993年までに2億3930万円が投入されている。

しかし、「水車の里」の成功は、事業費の規模ではない。オープン前から手弁当で参加したかあさんたちの熱意にある。

「水車の里」は家族でくつろげる公園のようになっているのも、都市部の人には好評だ。

「確かに食堂や加工施設など箱物は補助金で建てることができましたが、日々の運営費や自分たちの人件費まで出るわけではありません」

「私たちは水車の里をオープンするまでの1年間に、会員31人が毎月3000円を積み立てたり、他に西武デパートや各地の催事に出店して五平餅を売るなどして100万円ため、それを開業資金に充てたのです」と、大平さんは当時の熱い思いを振り返る。

失敗しているまちづくり事業は、「こんな補助金があるから何かやってみないか」という行政やコンサルタントの誘いに乗ったものが少なくないが、「水車の里」には熊を離れたくない、熊で暮らし、熊で人生を終えたいという女性たちの強い意思があった。

旅人はここで、かあさんたちの手打ちのそばを賞味できる。

かあさんたちは歯を食いしばって頑張った

「水車の里」はオープンしたころの時給が350円、1日7時間働いても2450円にしかならない。しかし、たとえ無給であったとしても熊のかあさんたちは「水車の里」をあきらめはしなかっただろう。お金ではなかったのである。

「くんま水車の里」は1995年に「道の駅」に認定され、2000年には「NPO法人夢未来くんま」となった。NPOという法人格を持つことになって、「水車の里」は熊地区のまちづくりの全てに関わるようになった。

物産館「ぶらっと」では地元特産の「天竜茶」や、かあさんたち手作りのコンニャク、みそ、五平餅、まんじゅうなどが大人気。

これまでは加工食品を作り、食堂でそばを提供することがメーンだったが、「水車部」のほかに「しあわせ部」、「いきがい部」、「ふるさと部」が創設された。

水車部だけが収益部門であるから、ここで利益が出れば他の部門に還元配分される。

しあわせ部は「生きがいサロンどっこいしょ」を運営するが、これは国の介護認定を受ける前の高齢者が家の中に引きこもらないように5カ所の集会場で語らいの場を設けている。

いきがい部は大感謝祭等イベントを開催し、都市との交流を進めている。

ふるさと部は環境保全活動が中心で、ほたるの学校や棚田ウォーク等体験型環境学習を担当している。

つまり行政に代わって立派に地域振興の中核を担っているのである。

現在、水車の里に関わっているスタッフは36名。フルタイムで働いて給料が約束されているのは2人だけ、あとはすべて時給で働くパート、臨時、業務委託スタッフである。

5月のシフト表を見せてもらった。

面白いのはおそらく縁戚が多く同じ姓が多いのだろう、表に書き込まれているのは姓ではなく、直子、百合子、寿子、明美、早恵子、智美というように名前だけである。

「店」とあれば、かあさんの店(食堂)の担当、「ぶ」とあれば地元の特産品などを売る物販の「ぶらっと」の担当、「五」は五平餅、「そ」はそば、「ま」はまんじゅう、「惣」は総菜や弁当づくり、「事」は事務所勤務、「助」というのは助っ人の意味で手薄のところに適宜配属されるという意味であった。

全スタッフの1カ月の出勤日数の合計は313日、いかに就労の場として地区に貢献しているかが分かる。

「時給も少しずつ上がって、現在は807円です。これは静岡県の最低賃金から算出されたものです。部長も新人も、勤務年数、年齢に関係なく一律です。出勤日数が多い人で1カ月約13万円、少ない人で5万円ぐらいでしょうか」

「時給が一律という公平感が30年間続いてきた理由の一つかもしれません」と2年前に、金田三和子さんから引き継いで水車部の部長に就任した高橋薫さん(69)は語る。

まちづくりは志を高く掲げてスタートしても、継続するのは難しい。水車の里は大きな問題はなかったにせよ、商売には素人のかあさんたちばかりで、お客さんとの対応では難しいこともあった。

厨房器具が古くなってもすぐに買い替えできるわけではない。昨年はトイレの修繕で初めて借金をした。いくばくかの内部留保はあるものの、貯金には手を付けずに借り入れを起こすほうが合理的と判断した。

このかあさんたちの家計簿的なしっかり精神が水車の里を支えてきたのだろう。

写真左から前会長の金田三和子さん、水車部の部長の髙橋薫さん、「どっこいしょ」の責任者の石打良子さん、自宅で農家民宿を営んでいる太平康子さん

最近は年間の売り上げが7千万円前後だが、これまでの最高は都会よりも遅れてやってきたバブル期の2004年の8498万円、最低はリーマン・ショックで景気が冷え込んだ2009年の6250万円、山の中の道の駅であっても経済の浮沈に左右される。

しかし、入るものが少なくなれば出るものを少なくすればいいというかあさんたちの当たり前の知恵が、安定した経営を守っている。

まちづくりに資金は必要だが、お金があれば成功するというものでもない。自分たちの住む地域を何とかしたいという強い気持ちを共有できるかどうかに全てがかかっていることを「水車の里」は教えてくれる。

(おわり)

※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』175号(2017年6月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。

>道の駅 くんま水車の里

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