東日本大震災から11年 津波に流され還ってきた梵鐘に鎮魂の想いをこめて(宮城県名取市閖上東禅寺 三宅俊乗さん)

【取材:矢田 海里(やだ かいり)】
1980年千葉県生まれ。東日本大震災直後に現地入りし、現地に居を構えながら被災した人々の声を拾う活動を続ける。ユネスコなどと共同し、全国で震災写真展を16回開催。著書に『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』(柏書房刊)ほか。

その鐘について、三宅俊乗(しゅんじょう)ご住職は、二つのことをおっしゃった。

「多少傷はありますけれども、音に関しては震災前と変わらないのです」

「鐘の音というのは、撞く人の心持ちで一声一声ちがうのです」

大津波にのまれてしまったあとも昔と変わらない音色を響かせながら、それでいてどれ一つ同じ音ではないという。よくよく考えてみれば不思議な話でもある。

その鐘の音は、今も海辺の町に鳴り響いている。宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の東禅寺。年の瀬も近い12月11日、東日本大震災の犠牲者の10年と9か月目の月命日となる日だった。地震発生時刻の14時46分、復興公営住宅に囲まれた境内の一角で、それまで行われていた墓石の工事の音がぴたりと止んだ。空は青く澄んで空気は冷たい。冬の太陽は傾きが早く、すでに西日になりつつある。

この日、鐘を撞くことになっていたのは、三宅ご住職の息子でもある、副住職の(しゅん)(しょう)さんだった。副住職は腕時計を確認すると、簡易やぐらに吊り下がった大きな青銅製の梵鐘の前に立った。鐘の前に立つと、自然と海の方角を向くようになっている。10年と9か月前、沖の方から巨大な津波がやってきた海、そして人々の魂が還っていった海だ。

副住職は撞木の手綱を両手で握り、勢いをつけて引くと、そのまま鐘の方へと押し出した。ゴォォーンと重厚な響きが周囲の空気を震わせる。最初の鋭い音がすぐさま減衰し、やがて低いうなりのような音だけが辺りを包む。その柔らかな余韻が消え入るころ合いを見計らって、副住職はもう一度静かに手綱を引いた。

鐘楼と副住職。

大震災当日、俊乗さんは県外に出ていたため、揺れを感じることもなかった。仙台空港が津波にのまれる映像を見て驚き、戻ろうと考えたが、地震直後の混乱でそれも難しかった。翌日、何とか東京まで戻ったのち、知人に車を借りることができた。国道四号線を北上し、閖上に戻ることができたのは地震から2日が過ぎた13日のことだった。

「ですから津波を経験していないのです。もちろん、映像では見ていますが実際の様子は全く見ていません」

閖上の街に入ろうとしたが道路は瓦礫でふさがっており、車は街の入り口から2キロ西側までしか入れない。しかたなく歩いて行った。うず高い瓦礫を超えて歩く中、ご両親のことを案じていた。

「覚悟はしていました。生存はかなり厳しいだろうとうすうす感じていたので」

閖上に入る前、市内の避難所を6~7か所回っていた。かろうじて難を逃れた人々が、市内の小学校の体育館や文化会館に運ばれ、避難生活をはじめようという時期だった。俊乗さんも各所を回ってたくさんの人にご両親の安否を尋ねた。しかし、消息は不明だった。

東禅寺に着くと、お堂の中にもたくさんの瓦礫が折り重なっていた。「もしかしているのかなと思って探したのですが。それでもいなかったですね……」

しかし、いなかったのではなかった。あまりの瓦礫の多さに、そのときは見つけることができなかったのだ。それから数日が経った3月16日に父であり当時ご住職だった(しゅん)(しょう)さんが、18日には母親が、自衛隊によって発見された。

「収容にあたった記録を見ますと、父も母も東禅寺の敷地内で見つかったということでした。ですからどこかにいたんでしょうね、私が来た13日に」何人かの目撃証言では、俊昭さんは津波の直前、お墓の方を見回っていたようだったという。

元亀4年(1573年)、東禅寺は茨城の常秀寺からやってきた(きゅう)山全應(ざんぜんのう)住職によって建立された。その頃は数十世帯の集落に小さな庵を建てたくらいのものだったのではないかと、三宅ご住職は語る。亡くなった俊昭さんは、初代から数えて23代目にあたるご住職だった。

20代で教師となり、それから5年ほどしてご住職となった。教育と仏道の二足の草鞋を、長らく続けてきた。宮城刑務所の教誨師となり、受刑者たちに教えを説いてきた一方、名取市の教育委員長、曹洞宗の宮城県選出の宗議会議員や宮城県宗務所長などを務めた。

そんな俊昭さんだったが、長男の俊乗さんに仏の道を強要するようなことはなかった。「いつか自分で気づくだろうと思っていたのかもしれませんね」のちに俊乗さんは駒澤大学で仏教を学び、永平寺での4年間の修行を経て自らその道へと入っていく。それから30年近くが経ち、先代の俊昭さんが高齢になったために、そろそろ住職を交代しようという話が持ち上がった。そしてその矢先、大震災が起きた。

「人間というのは強くできているんでしょうな。ここまでどん底に落ちると、意外と開き直るというか。これ以上はもう、上にあがっていくだけですから。絶望感というのはなかったです。私の場合は」

被災した東禅寺。

寺の再建のこともあった。「自分一人のお寺じゃないですから。檀家さんが大勢いらっしゃる。そのために何とか復興しなくちゃ。東禅寺を絶えさせることはできないなと」450年近い歴史の重みが双肩にのしかかった。「再建しないで逃げていったのでは、人として和尚として、亡くなった先住や歴代の和尚様方に申し訳ないというのがありました」

再建へと気持ちを後押しした出来事もいくつかあった。まず、津波で傷んでしまったものの、辛うじて本堂は残った。加えて何日か通ううちに、瓦礫の中からご本尊と過去帳の一部が相次いで見つかった。「これらの三つが残ったことは、私にとっては奇跡のようなことでした。これはお寺を再建しろということなのだろうと、納得しました」

同じ頃、街の人も瓦礫の中から思い出の品々を拾い集め始めていた。全国からボランティアも集まり、活動が広がりを見せた。瓦礫に「我歴」と当て字をした被災者がいたように、それらの活動は亡き人、なき故郷への弔いでもあったのだろう。

写真や衣服などと並んでとりわけ大切に扱われたものに、位牌があった。家々の仏壇から流出したであろう数々の位牌は丁寧に洗われ、乾かされ、閖上小学校の体育館の片隅に静かに並べられていった。いくつかの位牌の戒名は、亡くなった俊昭さんがつけたものだったと考えられる。 

檀家さんの葬儀も困難を極めた。「通常、亡くなってから3~4日経って葬儀を行いますけど、当時は火葬さえもできなかったですから」街の火葬場も津波で破壊されていた。そのため都内にまで運ばれたご遺体がいくつもあった。

「ある程度火葬が終わったのはゴールデンウィークごろでした」

それから三宅ご住職は檀家さんの葬儀を始めていった。東禅寺の檀家の犠牲者が235人。三宅ご住職は1年近くかけてそれに近い数の葬儀を行った。多い時は1日3件ということもあった。

墓石はおよそ400基が根こそぎ流失した。過去帳の一部も流出したため、戒名がわからず、俗名を刻みなおすよりほかない人もいた。あるいは遺骨が流出してしまい、納骨堂の底に溜まっていた砂を掘り起こして、それを遺骨の代わりにせねばならない人も半数にのぼった。「ただの砂じゃないですから。何十年ものあいだ、ご先祖様の遺骨がしみ込んだ砂ですから。供養の証になるのではないかと思い、収めていただきました」

一家で亡くなったのが1人だけとは限らない。「5人亡くなったお宅もありました。あと4人というお宅も何件かありましたね。平均すると2人くらいになるんでしょうかね……。みなさん心を込めて送っていましたね」檀家全体のうち、およそ3分の1の世帯で犠牲者が出た。そして一家が全員亡くなった絶家が10件あった。

一方、ご遺体が見つからず、葬儀があげられないという人もいた。「まだ2件かな。10年経ちますけど、なかなか気持ちも整理できないのでしょうね」時間が経ち、逆に難しくなってしまったのでは、とご住職は考える。「あるお宅は、お母さんだけ見つかっていないんですよね。おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、弟さんは見つかっているのですけど」

諦めきれないのだろうと察しつつも、あまり「お葬儀しなさい」というのも押しつけがましく思え、今は静観している。「13回忌までには何とかしなくちゃいけないと思っているのですが……」

三宅ご住職には、被災した檀家さんと接するときに意識してきたことがある。「過去には戻れないわけですから、未来に向けて気持ちを変えて進んでいきましょうと。でも、どうしてもそこから抜け出せないという方もいます。そんなときは下手な助言はしないで、黙ってその方のお話を聞くようにしています。時間とともに気持ちもだんだんと落ち着いてきますから。悲しみの極みに落ち込んでいた人も、少しずつ明るくなってきていますからね」

だが、時の流れでも解決しないことはある。「逆もあるんです。当初は気丈にふるまっていたけれども、時間の経過とともに落ち込んで、最終的には命を絶ったという方もいます。家族が亡くなられて、だんだんとその絶望が強くなっていったんでしょうね」

他にも仮設暮らしのストレス、生活再建の見通しの立たなさなどが背景にあったのではと三宅ご住職は考えているが、定かではない。「わからないですよね、その人その人の心の内というのは。そうなる前に何かアプローチできなかったかな、という無念はありますね」

月命日の鐘の音は朗々と響き続けていた。18回撞くことになっている。ここ最近は月命日にお参りに来る人も少なく、コロナもあってすっかり人が減った。今では住職と息子の副住職、そして妻の3人だけの法要となった。三宅ご住職はそれが少し残念でもある。しかし、たとえ家族3人だけであっても、法要は執り行われる。

副住職が撞木を引いては、前へと押し出し、ゴォーンと音が鳴る。梵鐘の背後に近所の公園の滑り台が見える。小さな子供たちが、かわるがわる滑り降りて遊んでいる。土手沿いを、厚着をした人々がマスクをして歩いている。その向こうで車が行き交っているのが、閖上大橋だ。あの日、川向こうの仙台市では防災無線が鳴った。しかし、手前の名取市では防災無線が鳴らなかった。鳴っていれば、どれだけの命が助かっただろう。街が新しくなっても、取り返しのつかなさが消えるわけではない。

被災してかろうじて助かった命、震災後に生まれた新しい命、すでに失われた命。この街に引っ越してきた命や、通りすがりの命もある。あらゆる命の交じり合った風景の中で、鐘は鳴り続ける。

倒れた墓石に埋もれて発見された鐘。街や人が飲み込まれるさまを「見ていた」鐘。その鐘を撞くことに意味があると、ご住職は考えている。津波に耐えた証や、凄まじさを物語る傷、昔の町の記憶の一部など、いろんな捉え方があるだろう。それを希望の鐘だとする見方も世間にはある。しかし三宅ご住職は言う。「この鐘は追悼の鐘だと思うんです。震災で亡くなった方を追悼する鐘の音だと思っているんですよ」

やがて18回の鐘撞が終わると、本堂の中で読経が始まった。副住職が朗々とした声で修証義を読経し始める。三宅ご住職のやや甲高い声がそこに重なる。それが凛とした空気の振動となって、本堂に満ちる。「お布施を頂かないお経をこそ、しっかり読みなさい」亡くなった俊昭さんの教えだったという。檀家さんのご先祖供養、子孫繁栄と安寧、すべてがそこに込められているのだから、と。

読経は続く。雲間から陽光が顔を出した。本堂の扉の隙間から強い西日が差し込む。堂内の床や三宅ご住職の背中を照らす。うす茶色の袈裟に施された刺繍がきらきらと光る。

本堂のどっしりとした欅の柱には、見上げるような高さに黒ずんだ大きなひっかき傷がいくつもある。震災遺構に乏しい閖上。後世にその面影を伝えるため、三宅ご住職はご両親を奪っていった津波の痕跡を、再建後もあえて残したという。傷ついた柱にしか支えられないものが、東禅寺にはある。

再興なった東禅寺本堂。

「閖上にはいつ戻れるのですか?」

被災した人々がまだ避難所の段ボールの間で支援物資を頼りに暮らしていた頃から、復興へ向けた会合で、そんな声があがっていた。街が壊れても、人々は土地とその記憶を愛していた。松林から覗く青い海。ハマボウフウが這うように咲く砂浜。週末の朝市の呼び声や短い夏に打ちあがる花火を、愛していた。一つしかない小学校をみなで卒業して、一つしかない中学校にあがり、同じ校歌を歌う。冬の朝には(赤貝の)漁師たちが白い息を吐きながら船を出す。お盆になれば家々の玄関に迎え火が灯る。

「こういった田舎ですから、故郷への思いは強いでしょうね。家が密集してごみごみしていましたけど。小さな路地がたくさんあってね」

そんな港町の真ん中で朝6時、「時の鐘」はずっと鳴り続けてきた。

最近になって、新しくなった閖上の町に人々が戻ってきた。「多くの人が犠牲になった場所でも、戻れるなら戻りたい」「ご先祖さんが眠る場所だから、そう簡単に移ることはできない」ご住職はそんな思いを人々の間に感じるという。だが、ことは簡単ではない。「閖上に行きたくないという方もいます。津波を思い出すようで足を運べないと」

実際、戻ってきたのは震災前の3分の1の世帯数に過ぎない。他はよそに移っている。「でも不思議なことに、皆さん移転してもこの近辺に住んでいるんですよ」()田園(たぞの)(もり)せきのした、袋原。どこも車で10分くらいの場所だ。故郷の記憶と津波の記憶が交じり合い、そのような距離感を生み出した。

「我々はお寺ですから。閖上の街全体が慰霊の場と考えています。よそに行ったのでは、供養の気持ちが薄れてしまいます」つらい記憶の中心で、かけがえのない故郷のまん中で、鐘と読経は響いていく。

「命が助かっていますので。東日本大震災の慰霊をしていくことが、生涯をかけての使命なのです」

三宅俊乗住職。

本堂での読経が終わると、再び外へ出る。三宅ご住職が線香を持ち、いくつかの場所を回る。歴代ご住職の墓石、三宅家の墓石、無縁仏となった人々の墓石。そして震災供養のための白い大きな妙光慈海観音像。「慈海」の字にはっとさせられる。多くの人が還っていった海を供養し、いつまでも静かな海であることを願う名前。海を憎むのではなく、その海でさえも慈しみを持って供養していく、観音様の慈悲の心なのだと、ご住職は語った。

それまで参拝者のなかった境内の墓所に、いつの間にかちらほらと人の姿が見え始めていた。月命日の、災害発生時刻を忘れていない、忘れることのできない人たちだ。若い子供を持つ家族の間には、朗らかな笑みもこぼれている。その笑みはあの日から長い時間が経ったことを示している。だが同じ津波にのまれながら、その悲しみはどれ一つ同じでないのだろう。

帰り際、追悼の鐘を撞かせてもらうことができた。海の方を向いて合掌一礼、撞木の手綱を握り、そっと前へ押し出す。コォーンという軽やかな響きがひとつ、海の方へと消えていった。

(おわり)

※この記事は、矢田海里さん、かがり火WEBメンバーとかねてより親交のある有限会社仏教企画様のご好意により、『仏教企画通信』第67号(2022年3月1日発行)より転載したものです。

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矢田海里『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』(柏書房刊)