【そんな生き方あったんや!】第22回(最終回)「『かがり火』の仲間が自分を支えてくれた」『かがり火』発行人・菅原歓一さん

200号を区切りとした『かがり火』休刊を受け、175号からスタートした本連載も最終回を迎えることとなりました。これまでご愛読くださった読者のみなさま、そしてご登場くださったゲストのみなさま、本当にありがとうございました!この記念すべき最終回にご登場いただくのは、なんと!『かがり火』発行人の菅原歓一さんです!

「そんな生き方あったんや!」の最後を飾るのに、これほどふさわしい人がいるでしょうか?いや、いない……。そんな僕の企みを、菅原さんは快く受け入れてくださいました。

「日本で最も地方を歩いた編集者」と言われ、34年間にわたり「無名のヒーロー」にスポットライトを当て続けてきた菅原さん。今後ますます注目されることになるはずです。限られた誌面で到底語り尽くせるものではありませんが、その魅力の一端だけでも、みなさまと一緒に追体験できれば幸いです。

【プロフィール】

菅原 歓一(すがわら かんいち) 1943年、秋田生まれ。明治大学卒業後、主婦と生活社に入社。編集業務を担当したのち1984年退職、株式会社ハル情報サービスを設立、1987年、株式会社リゾート通信社を設立し、『かがり火』の前身となる『リゾート通信』を発行。以来熱心な読者に支えられ、34年間、地域の名もない人たちにスポットを当て発行を続けている。

杉原 学(すぎはら まなぶ) 1977年、大阪生まれ。文筆家。専門は時間哲学。四天王寺国際仏教大学中退後、コピーライターを経て、立教大学大学院に入学。博士前期課程修了、後期課程中退。単著に『考えない論』、共著に内山節編著『半市場経済』(第三章 「存在感のある時間を求めて」執筆)など。世界で最も非生産的な会議「高等遊民会議」世話人。日本時間学会会員。 かがり火WEB共同主宰。

伝説の居酒屋「浪漫亭」

杉原 大谷翔平選手が投手と打者の二刀流で人気ですが、菅原さんも一時は居酒屋の経営者と編集者の二刀流だったんですよね。

菅原 新宿区市谷柳町に、平成元年にオープンした「浪漫亭」っていう居酒屋があったんです。都営大江戸線ができる前だから、非常に交通の不便なところにある店で、もとは柳町病院という病院だったんです。その病院が向かい側に移転したので、その病院を鈴木繁夫さんという方が借りて、居酒屋にしたものです。だから診察室や待合室、看護師さんたちの控室、病室、霊安室などの面影の残る建物でした(笑)。

杉原 ははは!飲み過ぎると霊安室へ運び込まれるとか。

菅原 ふふっ。そこの従業員は、青森県の田子町、新潟県の黒川村、長野県の栄村の役場から職員が出向して働いていたんですよ。田子町支局長の山崎美代志さんは当時の従業員です。そういう地方の役場職員が、半月、1カ月、3カ月交代などまちまちでしたが働きに来ていました。これが非常に画期的なんで、新聞とか雑誌に取り上げられて、地域づくりの東京の拠点として、話題の店でした。店に入ると、普通は「何番テーブル」ってあるじゃないですか。それが「住民課」「総務課」「税務課」「観光課」とかの名札が天井からぶら下がっていて、お客さんが入ると「住民課にご案内!」っていう感じでした。

杉原 面白いですね。従業員の給料はどこが出すんですか?

菅原 それは役場ですよ。

杉原 すごいシステム……!

菅原 店主の鈴木繁夫さんは伝説級の人物で、当時は有名人だったんですよ。鈴木さんはもともと、不登校児や閉じこもり児童を預かる「人間牧場」っていう施設を三宅島にもっていて、彼らを社会復帰させる活動をしていました。大自然の中で農業とか土木の仕事をやらせてね。けれども、その子たちが立ち直っても、働く場所がないんです。そこで鈴木さんは全国の地域を回って、彼らの仕事を探して歩いたんです。それで自治体の首長さんと親しくなった。だから地方の抱える問題にも詳しくてね。

杉原 なるほど。

菅原 鈴木さんは「とにかく役場を改革しないと、日本は良くならない」っていう考え方の人でした。首長さんに、「役場職員もサービス業なんだから、積極的に民間に学ぶべきだ」ということを吹き込んでね。それに賛同した首長さんが、「浪漫亭」に職員を派遣したの。職員は住み込みで、昼は行政の参考になる施設や企業や霞が関を訪ねたりして、夜は居酒屋の店員をやってました。「そこで人脈を増やせ!」っていうのが鈴木さんの方針で、「名刺が飛び交う店」というのがキャッチフレーズでした。そんな店だから、「浪漫亭」は地方から上京した人のたまり場だったんですよ。スマホもインターネットもなかった時代だから、いまヤフーで検索してもあまり情報が出てこない。

鈴木繁夫さん(写真中央)は上京してくる役場職員をいつも叱咤激励していた。

『リゾート通信』から『かがり火』へ

菅原 僕がたまたま「浪漫亭」に飲みに行った時、鈴木さんが回ってきて店のコンセプトとかを語るわけです。僕が発行していた『リゾート通信』の話をしたら、 面白いねと。何回か一緒に飲んでいるうちに意気投合して、鈴木さんから「地域をテーマにしたらどう?」みたいな話があって。それは面白いなと思って、鈴木さんに名誉編集長になってもらったの。その時に、誌名を『リゾート通信』から『かがり火』に変えたんです。『リゾート通信』だと、不動産とか開発のPR誌みたいに思われちゃうからって、35号から変わったのかな。

杉原 『かがり火』っていう名前は鈴木さんが考えたんですか?

菅原 そう。おそらく「闇夜を照らす」みたいなイメージがあったと思うんですよね。それから雑誌の方向性がはっきりして。「有名人は取り上げない」「地域で頑張ってる人たちをメーンに取り上げる」というコンセプトで取材を始めたんです。鈴木さんは実際に編集するわけじゃないけど、地方に顔が広いから、どこどこにこういう面白い人がいると教えてくれるので、取材に行くんです。最初にご登場いただいたのは長野県大鹿村で民泊をしている伊東和美さん(支局長)です。

杉原 支局長システムはどうやって生まれたんですか?

菅原 それも鈴木さんが提案してくれたの。われわれは東京にいるんだから、地方の情報を詳しく知るためには、地方に支局長がいたほうがいいって。それで最初に京都の大歳昌彦さん、北海道滝川市の水口正之さんの二人を紹介してくれました。そこからだんだん増えていって、多い時は270人ぐらいいたけど、いまは230人くらいかな。

杉原 全国の地域のキーパーソンが連なる、ものすごいネットワークですよね。

新旧編集長の交代セレモニーは握手するだけだった。

『かがり火』と居酒屋の二足のわらじ

菅原 ところが1996年(平成8年)に鈴木さんが脳卒中で倒れて、浪漫亭が閉店になってしまったんです。そうしたら常連のお客さんが、「せっかく全国の人が交流していた店なのに、行くところがなくなって困るし、閉店するのはもったいない」って。「跡継ぎやったら?」って僕に言うわけです。最初は「無理ですよ」なんて言ってたけど、居酒屋も持ってる編集部というのもわるくないな……と。立花隆や村上春樹も昔、店をやっていたこともあると聞いたこともあったし(笑)。

その時の常連の一人が日本経済新聞の浅田和幸さんで、「もし復活するなら記事にする」っていう話になって。それで日経の全国版に、「人間交流居酒屋が、常連客の熱い連帯で復活へ」っていうような見出しの記事を書いてくれたの。そうしたらぶわーっと話題になって、1株5万円で募集した株主が200人ぐらい集まりました。それで店を改装して、半年後くらいに「新」を付けて、「新・ 浪漫亭」っていう名前で再開したの。

杉原 繁盛しました?

菅原 そんな甘いもんじゃなかった!何せ大江戸線が開通する前の陸の孤島といわれる立地だったから、会社帰りに立ち寄って一杯飲んでいくという店じゃないんです。それでも鈴木さんがやっていたころは官官接待がまだあって、公務員の人が飲みに来てくれたけれど、僕が社長になったころ、公務員が食糧費を使うのが問題になった。昼は『かがり火』で公務員の無駄遣いを追及する原稿を書いていながら、夜は売り上げ減少で頭を抱えたり、世の中は一筋縄ではいかないことを実感しました。

杉原 そう簡単にはいかなかったと。

菅原 居酒屋は地元のお客さんが来ないと成り立たないんだけど、元病院でしょ。外観も居酒屋らしくないから、みんなこわごわ覗くんだよ。だからお客さんの90%は地方の方なの。しかもあのころ、ちょうどオウムの事件があって。地方から出てくる人は、荷物が多いんだよね。下手すると荒縄で縛った段ボールを担いできたりする人もいて、だからオウムの拠点じゃないかとうわさされてね……。

杉原 それは僕も入れないっす(笑)。

「新・浪漫亭」オープンを告知した本誌記事(34号)。

菅原 おだてられてやったけど、いやあ、その苦労ったらなかったですよ。株主が200人も集まったから、入れ代わり立ち代わり来てくれれば、店は成り立つだろうと思ったんです。ところが、来てくれても年に1回なんだよね。とうとう1度も来なかった株主もいたんじゃないかな。そもそも立地が悪くて、近くのどの駅から歩いても15分ぐらいかかる。しかも最初は関東大震災の後に帝都復興のために開業した銀行の建物だから古いでしょ。床も傾いていて、何か落とすとコロコロ転がって行っちゃうし。雨漏りもするんだよ。だからバケツをいっぱい買ってきて、「済みませんね」って置いて回ってね。

エアコンもないから、夏はうちわを配ったし、冬は家庭用の石油ストーブで暖をとってもらったし、トイレの根太も腐っていてぶかぶかする、今時珍しい店でした。お客さんから「トイレだけは改築したほうがいいよ」と言われました。それでもまあ、面白がってくれるお客さんもいたけどね。いろんな人が出入りするから、 情報源でもある。お客さん同士で結婚した人もいたし。鈴木さんはその店に「人間交流居酒屋」っていうキャッチフレーズを付けてたけど、僕が社長になった後もその精神は受け継ぎました。

杉原 一回行ってみたかったです。従業員はもう役場の職員じゃなかったんですか。

菅原 鈴木さんの信用と人脈で成り立っていた店ですから、僕が社長になったら役場とのつながりは切れました。新しくチベットの人とか、バングラデシュの人とか、3人ぐらいアルバイトを雇ったから、人件費もかかるし、家賃も払わなきゃいけない。仕入れ費もかさむ。電気代は高い。いつも赤字でね。まあ苦労しましたよ。しかも昼間は『かがり火』の編集とか取材もしなきゃいけない。ほんとよくやった。自分で自分を褒めてやりたい……。

「新・浪漫亭」を売却する

杉原 編集部のある西神田から店に通ってたんですか。

菅原 先日、曙橋駅から何年かぶりで防衛省の薬王寺門の前を通って、外苑東通りを新・浪漫亭まで歩いてみました。道路は拡幅されていて、店はなくなってマンションになり、1階がコンビニでした。往時茫々という感慨でした。 雨の日は悲惨でしたよ、店に着くまでに膝から下がびしょびしょになって。この通りには思い出があって、最初に就職した出版社で僕は芸能担当に配属されて、芸能人に毎日会っていたのですが、デビューしたばかりの山本リンダが市谷仲之町あたりのマンションに住んでいて、訪ねたことがあるんです。僕は新人、向こうも新人、どっちもぎこちなくて……。そんなことを思い出しながら店に向かいました。

杉原 菅原さんが芸能担当だなんて、ちょっと不思議な感じです(笑)。それにしても、二刀流は想像以上に大変だったんですね。

菅原 何の商売も同じかもしれませんが、居酒屋のおやじは毎日の売り上げに一喜一憂していては駄目なんです。ところが店に出るとお客が誰もいなくてし〜んとしているでしょ、他の店はどうなのか気になるので視察に出るんです。ところが居酒屋の玄関というのは曇りガラスだったりして店内が覗けないようになっている。他の店にお客が入っていると、嫉妬で石を投げたくなっちゃう。

杉原 気持ちはよく分かります。

菅原 出張から戻って羽田空港から会社に電話すると、いま店に誰々さんが来ていますという伝言があるんです。疲れているから真っすぐ自宅に帰りたいんだけど、せっかく僕と会うことを楽しみに上京しているのに、無視できないから店に出るんです。そうなるとそれなりに盛り上がる。上京した人たちは都心のビジネスホテルに泊まるからぎりぎりまで飲んでいられるけれど、僕は西武新宿線の終電が気になって落ち着かない。自宅近くの花小金井駅に着いた時は終バスが出た後でがっくり、酔いも何も醒めてしまって震えたことが何度もありました。

杉原 人のつながりを大事にする菅原さんらしいエピソードです(笑)。やっぱり居酒屋経営って難しいんですね……。

菅原 店にお客さんを呼ぶためにいろいろイベントを仕掛けました。落語会、地方の物産展、講演会、日本酒を楽しむ会、東京ふるさと会……。イベントって準備が大変なんです、ゲストをお願いしたり、案内状を作成して発送して、 出欠を確認して……。ただ良かったのは、店が広かったので会場には不自由しませんでした。

杉原 でも結局は続かなかったと。

菅原 結局繁盛しなくて、かなり深刻な状況になってきたわけですよ。『かがり火』も赤字でしょ、居酒屋も赤字の双子の赤字。にっちもさっちもいかなくなった時に、ある奇特な社長さんが現れて、「味があっていい建物ですね。この店を僕に譲らないか」と言ってくれて、負債と一緒に引き取ってもらいました。

杉原 助かったわけですね。

菅原 うん。まあ自慢できるとすれば、10年やって、ただの1円も店から報酬をもらってないことですね。父親が死んだ時、わずかばかりの遺産をもらったのですが従業員の給料に消えてしまいました。

杉原 ひと儲けするはずだったのに(笑)。

菅原 だからみんなに後から「ばかだね」と言われた。僕は小心者だけど、そういうところは大胆なんだね。しかも『かがり火』を1号も欠かさず出し続けながら、居酒屋のおやじと二足のわらじで……。いや、よく10年やりましたよ。

関東大震災の直後に建てられた「浪漫亭」の建物。地方から上京する人たちの交流拠点だった。

『かがり火』休刊から読者の力で復活

菅原 2003年に居酒屋を閉めたんだけど、今度は『かがり火』の累積赤字が迫ってきて、にっちもさっちもいかなくなって、2009年の4月に休刊しました。

杉原 そこからどういう経緯で復刊したんですか?

菅原 それで読者に「しばらく休刊させていただきたい」っていう詫び状を出したの。これ以上できなくなったと。ところが、手紙を出す切手代もなかった。で、購読料が振り込まれるたびに、それで切手を買って、北海道から順番に出していったの。そうしたら関東に入る前に、「『かがり火』がつぶれたらしい」ってうわさが流れて、それで、山口県の山中修さんっていう支局長から電話がかかってきて。「もう出せないんだって?」「いや、そうなんですよ」って。そうしたら、まとまったカンパをすぐ送ってきてくれた。矢祭町の根本町長は副町長、総務課長同伴で上京してくれて、帯封のついたカンパを渡してくれました。

杉原 へ〜!

菅原 さらに大阪の岸本千枝子さんっていう支局長が、「みんなでどうしたらいいか相談しましょう」って提案してくれて。それで8月29日、民主党が政権を取った選挙の前日、日本青年館で『かがり火』復刊のための決起集会をやってくれたんです。その日に、サラダコスモの中田智洋社長と、馬路村農協の東谷望史組合長と、イエローハットの鍵山秀三郎相談役、矢祭町の根本良一町長が駆けつけてくれて、全国から130人くらいの読者の方が集まってくれた。細川護煕元総理の奥さまの細川佳代子さんが、「『かがり火』はいい雑誌だから、何とか続くようにみんなで知恵を出し合いませんか」って言ってくれたの。

杉原 いい話ですね……。

菅原 鍵山さんがホワイトボードに口座番号を書いて、「『かがり火』を続けてもらいたいなら、ここに振り込んでやってくれ」ってカンパを呼びかけてくれて。そうしたら1千万円ぐらい集まったの。それで、とにかく続けることにしたんです。一番の債権者は印刷会社なんだけど、そこの社員の方も読者でね。自分の会社で刷ってるのに、お金を出して購読してくれていたんです。社長に、「これは印刷会社としても応援して、軌道に乗るようにしたほうがいいですよ」って言ってくれて、本当にありがたかったね。

杉原 この復刊のタイミングで、哲学者の内山節先生が編集長に就任してくれたんですね。

菅原 そう。鈴木さんが倒れた後は、明海大学教授で全国地域リーダー養成塾塾長の森巖夫先生が編集長を引き継いでくれたんだけど、2009年の5月に他界してしまって。その森先生が亡くなる前に、「内山さんにやってもらったらどう?」って言ってくれてね。内山先生を僕は尊敬していたから、お願いしたんです。

自己破産しようと思っていた

菅原 実はその決起集会の前に、自己破産しようと思ってたの。うちの読者に星德行先生という弁護士さんがいて、相談に行ったんですよ。「『かがり火』を休刊して、ついでに自己破産したい」って。そうしたらその弁護士さんが、「菅原さん、これいい雑誌だよ。ここまでやったのにもったいないよ」って言ってくれるんです。「僕が一緒に債権者を回ってあげるから、もうちょっと頑張ってみたら?」って。自己破産なんかいつでもできると。そう言われて帰ってきたら、その翌日かな、その弁護士さんが10万円振り込んでくれていたんです。

杉原 はぁ〜!

菅原 相談に行って、反対にお金をもらうっていうのは、普通ありえないじゃないですか。星先生の励ましはその後もずうっと力になりました(笑)。

杉原 漫画みたいな話ですよね。内山先生が『怯えの時代』(新潮社)の中で書いていましたけど、お金には二種類あると。単なる貨幣価値としての「冷たいお金」と、血の通った関係の中で使われる「温かいお金」と。『かがり火』を支えてきたのは、まさにこの「温かいお金」ですよね。

借金の対処法

菅原 お金を借りてつらいのは、罵声を浴びることより説教されることです。大抵、弁解のしようのない正論で押しまくられる。藤山寛美の松竹新喜劇じゃないですが、いちいち「どうだス、わての言うこと違ってまっか 」と迫られてもこっちは反論のしようもなくただうなだれるだけ。そのような経験から僕は人に説教じみた話はしないと誓いました。僕は編集者だけれど、借金抱えて自殺を考えている人たちの人生相談をやれる自信があります(笑)。

杉原 いやあ、勉強になります(笑)。

菅原 自分で「参った」って言わない限りは敗北じゃないっていう、いい言葉もあるから。自分で「負けました」って言わない限りは敗者じゃない。

「日本で最も地方を歩いた編集者」菅原歓一さん。

『かがり火』の仲間が支えてくれた

菅原 でも、結局ここまでやってこれたのはね、家族、兄弟はもちろん、やっぱり『かがり火』の仲間、親しい人たちが周りにいたからです。今もそうだけど。『かがり火』は、単なる編集部と読者の関係じゃない気がするんだよ、支局長も含めて。

杉原 菅原さんは、一人ひとりの読者のことを本当によく知ってますよね。イベントとかで読者を紹介する時の話が、ものすごく細かい(笑)。

菅原 ふふっ。少部数だからですよ。『かがり火』を面白がってくれる読者って、どう考えても少数派ですよ。無名の人、地域の人を取り上げる雑誌だから。でもそういう仲間が、自分を支えてくれたね。いざとなったら、全国の親しい支局長の家を泊まり歩けばいいと思えたしね。みんな家がデカいもんだから、空いてる部屋がいっぱいあるんだよ。「そろそろ出て行ってほしい」って言われる前に、 次のところ、次のところって……(笑)。いや、そういうことも考えたよ。

杉原 そういう相手がいるだけで救われますよね。気持ちが楽になるというか。

菅原 いざという時に頼りになる友人がいるっていうことはね、すごく力になりますよ。そして何より一番ありがたいと思ってるのは、うちのクライアント。広告主は大抵、「広告出してやってる」っていう態度をとるものなんです。 僕が出版社にいたころ電通の社員と一緒に大手クライアントと会食する機会が何度かあったけれど、クライアントは大名、電通社員は家来といった感じでした。うちのクライアントは紳士で威張らない、尊敬できる人ばかりです。馬路村の東谷組合長なんかは、まだ課長のころから付き合っていて。『かがり火』に広告を出しても、別に1部を個人で購読してくれてきちんと毎年購読料を振り込んでくれた。本当に頭が下がりました。

杉原 そんな広告主いないですよね、普通。

菅原 サラダコスモの中田社長からは、お歳暮が届くの。普通はこっちが広告主に届けるものなのに、反対に向こうから送ってくれるんですよ。もやしとか、かいわれ大根とかスプラウトといわれる野菜を扱っている会社なんだけど、お歳暮を開けたら、その商品と一緒に『かがり火』が入ってるんですよ。この会社が『かがり火』をまとめて買ってくれてるんですよ。

杉原 それでみなさんに届けてくださってると。

菅原 うん。そこに社長のメッセージが付いていて。「『かがり火』 はいい雑誌で面白いから、我が社もここに広告を出しています。つきましては、ぜひ機会があったら読んでいただきたいと思います」って。僕の知らないところで、 こうしてやってくれてるんだなーと思ってね。熊本の「白金の森」の松岡社長は、息子さんに事業を譲った後は一時ポケットマネーで広告を出してくれました。

杉原 完全に損得を超越した世界ですよね。それで34年続いてきたと……。しかも一回休刊したのを読者が復活させる雑誌なんて、前代未聞ですよね。

菅原 いや、ほんとにありがたいですよね。そういう人たちに、僕はお返しするものがないのよ。だからその分、困っている青年とかに、違う形で手を差し伸べたいというか。もらった人にそのままお返しするというより、いわゆる循環型のお返しをしたいんですよ。

杉原 「恩送り」の循環ですね。

菅原 うん。そうやって社会は回ってるんだと思う。

杉原 いよいよ『かがり火』は無くしてはいけない雑誌と思うようになりました。今後の展開に期待しつつ、ひとまずお疲れさまでした!

次から次と笑えるエピソードが出てくる菅原さんでした(杉原)。

(おわり)