今回ご登場いただくのは、東日本大震災の直後から被災地に入り、今なお現地の人々の声を拾い続けている、ライターの矢田海里さんです。
僕が矢田さんと知り合ったのは、ある出版関連イベントの帰り道。話したのはほんの数分だったのですが、彼の被災地への想いの深さと、その謙虚なたたずまいがとても印象的でした。その後は会う機会がなかったのですが、そんな僕らを再会させてくれたのは他でもない、この『かがり火』だったのです。
昨年12月に『霞ヶ関ばたけ』(本誌183号で紹介)と『かがり火』が共同で開催した感謝祭。歓談で盛り上がる会場の中に、思いがけない顔を発見しました。「あの、矢田さんですよね?」「えー!よく気づきましたね!」およそ5年ぶりの再会にご縁を感じた僕は、その場でこの連載への登場をオファーしたのでした(笑)。
震災の記憶が年々薄れゆく中で、矢田さんの言葉は重みをもって僕の胸に響きました。
※この記事は、地域づくり情報誌『かがり火』185号(2019年2月25日発行)掲載の内容に、若干の修正を加えたものです。
【プロフィール】
矢田 海里(やだ かいり) ライター・フォトグラファー。1980年、千葉県生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒。在学中、イラク戦争下のアメリカ合衆国を自転車横断しながら戦争の是非を問うプロジェクト“Across-America”を行い、この体験を文章にまとめたアクロス・アメリカを執筆。フィリピンのマニラのストリートに潜入し、子どもたちや娼婦たちの暮らしを見つめ、ルポルタージュを執筆中。東日本大震災発災直後に現地入り、ボランティアの傍ら現地の声を拾い始める。以降現地に居を構えながら取材を続ける。放送批評雑誌『GALAC』に「東北再生と放送メディア」を連載。冒険家やアスリートを紹介するサイト「ド級!」でエクストリーマーの一人に選ばれる。「不確かさと晴れやかさのあいだ」をテーマに人間の内面を描き続けている。
杉原 学(すぎはら まなぶ) 1977年、大阪府生まれ。四天王寺国際仏教大学(現四天王寺大学)中退。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修士課程修了、博士課程中退。哲学専攻。研究テーマは「人間と時間との関係」。広告会社のコピーライターを経て、現在は執筆、研究活動などを行っている。単著に杉原白秋『考えない論』(アルマット/幻冬舎メディアコンサルティング)など。共著に内山節編著『半市場経済』(第三章「存在感のある時間を求めて」執筆、角川新書)がある。日本時間学会会員。世界で最も非生産的な会議「高等遊民会議」世話人。趣味はカラオケ。
アメリカ横断の旅
杉原 いやあ、きのうは久々にお会いできて。
矢田 びっくりしましたね、ほんとに(笑)。
杉原 しかも急なオファーを受けていただき恐縮です(笑)。では早速。矢田さんはライターとして活動されていて、東日本大震災以降は、被災地を継続的に取材されていますよね。
矢田 そうですね。自分のやりたいことがそこにあるというか。震災関連では、放送批評の雑誌『GALAC(ギャラク)』とかに連載記事を書いたりしましたね。
杉原 そもそもライターになったきっかけは何ですか?
矢田 「書く」っていうことで言えば、大学5年生の夏(2004年)に行った「アメリカ横断の旅」が大きいかもしれない。もともと冒険家に憧れていて、高校の時に自転車で日本縦断したり、大学はヨット部に入って四国、九州、台湾まで行ったり……。できればずっと冒険していたかったんですけど、まあ、お金にはならないし(笑)。
さらにショッキングだったのが、アメリカの『TIME』誌に載っていたスティーヴ・フォセットの記事。彼は「気球による無着陸・単独世界一周」を達成した人なんですけど、その記事に「彼の冒険によって、人類の冒険は全て終わった」みたいなことが書かれてたんですよ。僕はそれを「もう未開の地はない」みたいに理解して、すごくショックを受けて。
杉原 終わっちゃったんだ、と(笑)。
矢田 そう。で、未開の地を失った冒険家たちは、「記録の達成」とかをやり始めるんですよ。「最年少」「単独」「無酸素」「日本人でナンバーワン」とか条件をつけて1番、みたいな感じで。
なんだかなあ……と思いつつ、「じゃあ自分はどういう冒険や旅がしたいのかな」と悩んだ末に、「テーマを持ち込もう」と思ったんですよ。で、当時イラク戦争が始まったころだったので、「アメリカを横断しながら、人々が戦争についてどう考えているのかを聞いてみる」っていうのをやり出したんです。
杉原 旅に「戦争」というテーマを持ち込んだ。
矢田 そう。A4判のビラに「なぜ戦争はなくならないのか」「あなたの意見が聞きたい」「募金集めています」って英語で書いて、それを配りながら2ヵ月ほど旅したんです。ルート66を、ロサンゼルスからニューヨークまで。
自転車だったんで、面白がって食いついてくる人もいて。ビジネスセンターでコピーをとっていたら、隣にいたおばさんが「それ何なの?ちょっと見せて」って。「さすがアメリカだな」と思いながら話してるうちに、「私の家に泊まっていきなさいよ」みたいな展開になって。
杉原 さすがアメリカだな。
矢田 結局泊まらなかったですけど、これには後日談があって。今から3年ぐらい前、そのおばさんがフェイスブックにレッドカーペットの写真をアップしていて、トロフィーみたいなのを持っているんですよ。「何だろう?」と思って読んでみたら、「アカデミー賞とりました」って(笑)。
杉原 マジで?
矢田 『スポットライト 世紀のスクープ』(トム・マッカーシー監督)っていう映画があって、そのプロデューサーが彼女だったんです。けっこう問題作で、カトリック司祭による性的虐待事件を描いたドキュメンタリー。まあ硬派な作品ですよね。
杉原 ああ、そういう人だから矢田さんの活動にも関心を持ったんですね。しかしあの広いアメリカで、たまたま隣でコピーをとっていたのがそんな人とは……。
矢田 そうなんですよ。ほんと面白かったですね。戦争に対する考えを聞きに行ったんですけど、最終的には、それぞれの答えの背景にある、パーソナルストーリーのほうが面白いってことに気付いたんです。その旅は卒論代わりのプロジェクトでもあったので、レポートを書いて大学に提出しました。
でも、もっと自分の心境の変化も含めた、エッセー的な形で書き直したいと思ったんです。卒業後もアルバイトをしながら、書き上げるのに3、4年ぐらいかかりましたけど。それがモノを書き始めた最初かもしれないですね。読みたい人は誰でも僕のホームページで読めるようになっています。
旅から帰っていろいろ行き詰まることもありましたけど、そういう出口のなさを救済してくれたのが「書く」っていうことだったんです。
被災地に飛び込む
矢田 その後、フィリピンのマニラに取材に行ったんです。「スモーキーマウンテン」って呼ばれるゴミの山があって、子どもたちはそこで拾ったゴミを売って生活してる。その写真を見て衝撃を受けて。何かプロジェクトを始めようと思っていた矢先に、東日本大震災が起きたんです。僕は千葉にいたんですが、10日後くらいに被災地へ向かいました。
杉原 それは取材のために?
矢田 いや、その意識はなかったですね。ただそこに重要なものがある気がして、「飛び込んだ」っていう感じで。当時は「行ったら迷惑になる説」とかもあって、それを振り切ってひっそり行きました。自転車を買って担いで行ったんですけど、自転車屋さんに「被災地にでも行くんですか?」って聞かれた時に、「いや、違います」ってウソついたんです。言えなくて(笑)。
杉原 当時はそれぐらいピリピリしてましたもんね。
矢田 そうですね。とりあえず仙台空港に行ってみたら、「閖上(ゆりあげ)地区が大変なことになっている」って教えてくれた人がいたんです。そこにご縁を感じて行って、瓦礫の撤去、避難所のゴミ袋の交換、海外から来た記者の案内とかのボランティアをやっていました。
「食って責任を取ろう」
矢田 そのうち避難所の人たちと知り合うようになると、「矢田さん、きしめん来たから食べなよ」みたいな感じで、支援物資をくれたりするんですよ。僕はもちろん断っていたんです。それは僕の食べるものじゃないと。
でもとにかく、くれるっていうのがすごいことだと思って。家もなくなって、故郷もなくなって、人によっては家族も亡くなっている時に、数少ない支援物資を人にあげる……。これは何なんだと。
後から考えると、「人の役に立っている」という感覚を得ることも、実は彼らを支える、人間としての重要な活動なんじゃないかって思ったんですけど。それで何回かすすめられた時に、「食べよう」と。「食って、責任を取ろう」っていうほうにシフトしたんです。
ただ、「じゃあその責任って何?」「どうやって取るの?」っていったら、今も分からないです。答えはないんですけど、彼らと長く関わっていくことも一つだし。
杉原 確かに「人の役に立ちたい」っていうのは、人間の本質的な部分なのかもしれませんよね。誰かの役に立つことで「自分は必要な存在なんだ」と思えたりするし。
そう言えば僕、落ち込んでいる友達に相談された時なんかは、できるだけその人に相談し返すようにしていました。相談されるのってうれしいし、「自分を頼りにしてくれている人がいる」っていうのは、生きる力になるから。そう考えると、どっちが支えていて、どっちが支えられているのかって、実はよく分からなかったりして(笑)。
矢田 いや、確かにそうかもしれない。……あと自分の中でもう一つ、葛藤があった出来事があって。僕によく食べ物をくれたタクシードライバーの橋浦さんって方がいて、町の被災状況を無料で案内してくれていたんです。自分も被災して家もなくなっているのに、「とにかく知ってほしいんだ」って。
で、橋浦さんが仮設住宅に移った時に、「矢田さん泊まりに来なよ」って言ってくれて。でもそれはちょっと心苦しくて、僕は結局、仙台市にアパートを借りることを選択したんです。それで、「被災した方の静かな暮らしに、いくら好意でも、そこまで踏み込めません」っていう内容のメールを、けっこう悩んで送ったんです。
そのことを『GALAC』の編集長に話したら、「被災者の生活を乱したくない」じゃなくて、「橋浦さんの生活を乱したくない」って言えばよかったね、って言われたんですよ。確かに自分は被災してなくて、橋浦さんは被災してる。それは事実だけど、「必要以上にそこに線を引いているんじゃないの?」「それ以外の人間関係はないの?」っていうことを、その編集長は言ってくれたんだと思うんですよね。
杉原 「被災者」とか「よそ者」とか、そういう立場を超えた「固有の関係」が、二人の間には生まれていたわけですね。
矢田 そうです。だからメールの返信はちょっと素っ気なくて。「一線引かれたな」と思ったからなのか、「被災者」って呼ばれたからなのか……。後で聞いたら、「あ、そうなの……って思ったよ」って言われましたね(笑)。橋浦さんとは今でも、そういう話ができる関係なんで。
杉原 それで思い出したのが、よく言われる問いで「なぜ人間を殺しちゃいけないんですか?」っていうのがあるじゃないですか。子どもに聞かれたら困るやつ(笑)。でもその問いは、問いとして成立していないと僕は思っていて。
だって「人間」っていう人はいないじゃないですか。それはさっきの「被災者」と同じで。だからその問いが成立するとしたら、「なぜ杉原学を殺してはいけないのか」っていう形でしか成立しなくて。
矢田 現実の世界では、そうですよね。
杉原 そう。「なぜ人間を殺してはいけないのか」っていうのは概念の話をしているだけで、現実の話じゃないんですよね。だからリアリティがないし、そこに答えなんかなくて。
矢田 ああ、面白い。「個人の顔が消えちゃう」っていうことですよね。
杉原 うん。だからさっきの話に温かさを感じるのは、矢田さんと橋浦さんの間に、お互いを思いやる「顔の見える関係」があるからですよね。
「復興イコール破壊」
矢田 橋浦さんは、閖上地区の初代村長の孫の孫なんで、すごく地元愛が強いんです。僕の東北取材の水先案内人ですね。で、彼が言ったんです。「復興イコール破壊です」って。
……被災地に入って初期のころ、現地からの要望で、僕も瓦礫の撤去をやっていたんです。ただ、どんどん町の瓦礫が撤去されていくことに、心がついていかない人が結構いる。
で、橋浦さんは僕らを案内しながら、「この角にはかまぼこ屋さんがあってな」とか、「これは日和山って言ってな」「これは湊神社って言って、代々こういう歴史がある」とか教えてくれて。被災して壊滅状態だけど、「伝統のある町なんだ」っていうことを知ってほしい、みたいな。
そんな橋浦さんがある日、「あれ、ここに何があったんだっけな?」って言い出したんです。町の痕跡が、瓦礫と共に一個一個取り除かれていって、記憶がなくなっていく。橋浦さんは自分がそうなるとは思っていなかったんでしょうけど、ある時、「思い出せなくなったよ、矢田さん」って……。その時にポロッと言ったんです。「復興イコール破壊なんだよな」って。これがグサッと突き刺さったんですよね。
石巻のある人は、「瓦礫」に当て字をして、「我歴(ガレキ)」って言っているんです。「我が歴史なんだ」って。そういう喪失感、悲しみが知られずに、瓦礫が取り除かれていくっていう状況に、憤懣(ふんまん)やるかたないっていう人もいれば、まあしょうがないっていう人ももちろんいますし。いろいろあるんだけれども、影の部分っていうのはなかなか表に出てこないんですよね。
「悲しみは愛」
矢田 メディアが復興をあおる中で、ずーっと悲しみの中にいる人、立ち直れない人に対して、「まだ悩んでるの?」みたいな空気が生まれることがあるんです。外側の人間が、彼らの人生を先取りして、復興のストーリーを勝手に描いちゃうんですね。そしてその悲しみに「心の病」というレッテルが貼られていく、みたいなことが現場であって。悲しみに対する、外側からの一方的な解釈ですよね。
……生後7ヵ月の赤ちゃんを今も探しているご夫婦がいて、彼らもそのことに苦しんでいたんです。そんな中、インターネットで「悲しみは愛なんです」という、上智大学の岡知史先生の言葉を見たそうで。
要するに、西洋の心理療法では悲しみは除去すべきものなんだけど、日本人の言う「悲しみ」には「愛(いと)しさ」も含まれていて、それらは表裏一体なんだと。分かち難いものなんだって言っていたそうなんです。だから「悲しみ」を無理に引きはがそうとすることは、「愛しさ」も同時に引きはがそうとすることなので、心に無理が出ますよ、と。
それを見た時に、そのお母さんは、腑に落ちたような感じがあったそうで。ご自身の心に起きていることに、近いことを見つけたんでしょうね。
杉原 うん、うん。
矢田 だから、悲しみを癒やしたりなくしたりすることも「心の復興」の一つだとしたら、やり方によっては、そこにも「復興イコール破壊」になり得る何かが含まれる可能性がある、ということを僕は感じたんです。まあ、非常に難しい問題ですけど。
学ぶことが尽きない
杉原 閖上地区の人々との関わりは、今後も続いていくわけですね。
矢田 そうですね。たとえば、閖上地区の10人ぐらいをオムニバス的に取り上げて、町の現状を立体的に描き出す、というのをしたいなと。一つの場所に絞ったほうが深いものが見えてくると思うんですけど、一人だけに光を当てても、見えてこない部分がやっぱりあって。
杉原 「一つの場所に絞る」っていうのは、「一人ひとりの顔が見える範囲」ってことでもありますよね。それを広げちゃうと、ただの統計みたいになっちゃって。
矢田 そうなんですよね、ほんとに。統計とか一般論も大事なんですけど、「個を見たい」というのがやっぱり大きいですかね。その人の「心の変化」に一番興味がある。そこは、これから先もブレることはないんじゃないかなって。
杉原 そこに矢田さんの追求したいテーマがあるわけですね。
矢田 ざっくり言えば「人間とは何か」みたいなことに興味があって。その発見を「これだ」っていう1行にできるとスッキリしますし。その「人間」にはもちろん自分も含まれているし、他人の理解にもつながっている。
被災地にいると、答えが出ずに悩むことも多いですけど、とにかく「学ぶことが尽きない」っていうのは、ずっと変わらないかな。
(おわり)
矢田海里『潜匠 遺体引き上げダイバーの見た光景』柏書房、2021年。
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