アクロス・アメリカ【第四章・救命者の矛盾】―「自由を守るという物語に流されていったのよ」―

救命者の矛盾

まずい。このままではぶつかる。大きくハンドルを切ったが遅かった。ガツンという音とともに向こうずねに衝撃が走り、そのまま大通りに向かって跳ね飛ばされた。空中に放り出された瞬間、ああ、やられたと思った。

「アーユーオーケイ?」 

運転手が叫びながら車から飛び出してくる。女性の声だった。そして顔を上げたとき、視界に入った横倒しの自転車にハッとなった。前輪が大きくひしゃげている。原型をとどめない無惨な形。瞬間、「この旅は無理だ」と思った。何が無理なのかはっきりしないが、とにかくそう思った。強打したすねの部分が急に激しく痛み始める。

女性ドライバーが狼狽しながら「アーユーオーケイ?」を何度も繰り返す。他にも何かをしゃべっていたが、こちらも興奮してほとんど聞き取れない。わけもわからず「大丈夫です」と繰り返したが、しばらくまともに立つことさえできなかった。

彼女に支えられてガードレールのそばまで歩いて腰を下ろすと、座ったまま放心状態になった。激しく興奮している。ぶつけられた自分の体はどうなったのか。跳ね飛ばされた衝撃で左足のすねの部分が痛い。地面に投げ出された時に右腕を激しく打った。他にも何の衝撃か、左足のサンダルの布が切れて履けなくなっていた。

そしてひしゃげてしまった自転車。前輪がグニャリと曲がり、ハンドルも妙な角度にねじれている。くくりつけていたはずの荷物類が地面に散乱していた。

朝七時過ぎ。ぼくは旅を始めてたった一マイルもしないところで事故に遭ってしまったのだ。

数日かけてロスの街を走り回り、自転車の備品をなんとか揃えた。ホステルで荷造りをし、アメリカの地図を眺めてやっと始まるのだと思った。そして西海岸の心地よい潮風を浴びながら「出発にふさわしい朝だ」と悦に入っていた矢先のことだった。

ホステルの前の幹線道路を数百メートル走り、数ブロック目の交差点に来たとき、左側から車がゆっくりと出てきた。ぼくはその車が一時停止すると思って、そのまま横断歩道を渡ろうとした。しかし運転手は左右の確認をせずにそのまま大通りに車の頭を出してきた。危ないと思ったがハンドルを切っても間に合わなかった。

やがて事故現場にポリスが到着して調書を取り始め、彼女が事故の状況を説明していった。彼女は一時停止を怠った。細い通りから幹線道路へ出るとき、彼女は一度もぼくの方を確認せずにアクセルを踏んだのだ。

しかし、実はぼくの方にも過失があった。ぼくは数百メートルだけ車道の端を逆走していたのだ。日本の左走行に慣れていたぼくは、そのとき対向車が迫ってくる左車線の端を少しだけ走ってしまっていた。「まずいな」と思い車道から歩道に移ろうとしたとき、事故に遭ってしまったのだ。

けれども、ぼくも彼女もお互いの過失をなじるようなことはなかった。アメリカ社会でトラブルになると決して自らの非を認めてはならないというイメージがあったが、この事故に限ってはそんなことはなかった。もっとも、これでぼくが生命に関わる重傷を負って多額の治療費を必要とするような場合、話は別なのかも知れないが。

警察の男はぼくの怪我の具合を心配してくれたが、彼が来るまでには痛みは引いてだいぶよくなっていた。病院に行く必要はなさそうだった。ただ、大切な移動手段である自転車が無惨に壊れてしまったのがショックだった。

「修理代は私が払うわ。保険が降りるから大丈夫よ」と言ったが、正直なところまったく慰めにならなかった。

彼女はスーザン・スティッチと名乗った。今まで気づかなかったが、彼女はおなかが大きく出ている。出産前の妊婦さんだったのだ。ぼくはそれを見て大変なのは自分だけではないのだと思った。聞けば、二週間後に出産を控えているのだと言う。大事な時期に大変な目に遭わせてしまったな、と気の毒というか申し訳ない気持ちになった。

彼女はバイクショップが開店する時間まで待って、それから修理に必要な部品を揃えましょうと言った。そしてショップのオープン時間までカフェで時間をつぶすことになった。近くのスターバックスに入ると彼女は「私が払うわ」と言ってラージサイズのラテとベーグルを二つずつ注文した。

「私は街の病院で看護士をしているの。でも出産が近いから仕事は休んでるわ」と彼女は言った。生まれてくる子どもは女の子で、名前はまだ決まっていないという。

「これから夫と一緒に決めるの。いくつか候補があるけどまだ迷っているのよ」

彼女が笑うと、事故に遭ったショックが少し和らいでいくような気がした。

「あなた、大きな荷物をつけていたけど、あの自転車でどこまで行くの?」

彼女が聞いてきた。ぼくは自分の活動を話して、いろんな人の意見を聞いているんです、と言ってイラク戦争について聞いてみようと思った。

「いいわよ」

唐突に言ったためか少し不思議そうな顔をしたが、快く返事をしてくれた。朝方のカフェテラスでインタビューが始まった。

「私は反対よ。たくさんの市民が亡くなっているのよ。ブッシュは暴君だわ。この街の人はきっとほとんどあの戦争を支持していないはずよ」

砂糖をかき混ぜながら自信たっぷりに言う。それなら誰が支持しているのだろうか、と聞いてみた。

「保守的な人たちよ。中部に住んでいるのかしら。アメリカでは西海岸と東海岸はリベラルな人が多いのよ。海沿いの大都市には移民が多いの。つまりバックグラウンドの違う人たちが理解し合う風土があるのよ。反対に犯罪も多いのだけどね」

おおざっぱな理解であるにせよ、この国の輪郭をわかりやすく掴むことができる。そして彼女が誇らしげに言うところによれば、カリフォルニアという州、そしてロサンゼルスという街はアメリカで最もリベラルな場所の一つなのだという。

しかし、そんな彼女も9・11以降のアフガニスタンへの報復に関しては賛成の立場だった。ぼくはアフガニスタンとイラクの二つの戦争を挟んで、彼女がなぜ賛成から反対に変わったのか聞いてみた。ベーグルをちぎりながら彼女は少し考える。

「賛成というよりも、やむを得ないという気持ちだったの。あのとき、アメリカは少しおかしくなったのよ。いろんな人があの戦争を支持したのよ。私もそう。テレビではビル崩壊の映像が何度も流れ、アメリカの自由を守るということがさかんに言われたの。その動きに反論できる根拠を持った人が誰もいなかったのよ。一部の平和を訴える人もどこか現実離れしたようにしか聞こえなかったの。そう、現実的で平和的なビジョンを持っている人があのとき誰もいなかったの。それが多くの人が戦争を支持した理由だと思うわ」

実際、彼女を含めて周囲のいつもならリベラルな意見を言うはずの人が、戦争止む無しという意見に流れていったのだという。

「でも今ではあの戦争が最善の方法だったとは思わないわ。あの戦争を一瞬でも支持したことを後悔しているの」

彼女を変えさせたのは、実際戦争が始まってからなされた誤爆報道やそれによって生じた無数の一般市民の犠牲者の存在だった。彼女は看護士として人命救助に携わる自分と、無益な殺生を支持する自分に矛盾を感じたのだ。まして女の子を身ごもった今、その葛藤を経て、大きく考えが変わったのだろう。

ぼくは彼女が報復戦争を支持した時、一般市民の犠牲者が出ることを想像していたか、と聞いてみた。

「想像できていれば賛成などしなかったわ」彼女は何かに苛立っているようだった。

「私を含めて多くの人が物事の一部しか見えていなかったのよ。自由を守るというわかりやすい物語に流されていったのよ」

彼女が話す間、世界地図の上にいくつかの玉のようなものが乗っているところが思い浮かんだ。アメリカの上にある玉は「自由を守る」というアメリカの人々の信念で、アフガニスタンやイラクの玉は犠牲になった人々の無念だった。どちらかが大きくなればどちらかが影になって見えにくくなる。そんな気がした。

「テロリストがいなくなれば世界は平和になる、というのは多くの人が考えているはずよ。けれども今の戦争が最善の方法だとは思えないの。実際にはこの何年かで同時多発テロよりも多くの人が亡くなった。それだけよ。戦争がもたらすのはそれだけ」

イラク戦争を続けようというブッシュ大統領には次の選挙で投票できないと彼女は言った。ぼくはイラク戦争に関する政策は大統領選挙でも大きな争点になるかと聞いてみた。

「当たり前じゃない。無駄な戦争を続ければ国民の暮らしも悪くなるのよ。戦争より他のことにお金を使うべきよ」彼女は少しヒステリックに言う。

ぼくはまた、アメリカは他の国々に対して、何らかの責任を負っていると思うか、と尋ねてみた。出発前に友人と話したとき、アメリカは他国の問題に介入しすぎるという意見があったのを思い出したのだ。

「知ってるでしょう?この国は先住民族のネイティブアメリカンを駆逐して出来上がった国なの。それからたくさんの移民たちの力を借りて豊かになったの。だから私たちは他の多くの人たちに借りがあるのよ。アメリカは世界のために何かをしなくてはいけないと思うの。もちろん暴力的でない方法でよ」

そして彼女はこうも言った。

「戦争の犠牲者は亡くなっていった人や負傷した人だけではないわ。私は帰還兵も犠牲者のうちだと思うの。だから、私はたまに彼らをサポートするような募金活動をするの。本当はボランティアのような仕事をすべきだけれど、看護士の仕事が忙しくてなかなかそこまではできないわ。これから子供も生まれるし」

ぼくは彼女の言う「帰還兵にサポートが必要」という意味がわからなかった。そう思ったが彼女は続けた。

「もし、この国のイラク戦争や大統領選挙に興味があるなら『華氏911』を見るべきよ。あの映画はいろいろな戦争の矛盾を指摘しているのよ」

彼女と同様に、何人かの人が同じことを言った。それはあたかも反ブッシュ、反イラク戦争の人々がムーア監督を中心に緩やかな連帯を形成しているようだった。

やがてバイクショップがオープンする時間になり、ぼくらはカフェを出た。ショップに着くとぼくは店員に手早く必要な部品と曲がった車体の修理を依頼した。支払いが済むと、店の前で彼女と別れた。

「気をつけてね。交通ルールはきちんと守るのよ。お互いにね」

ぼくは苦笑するほかなかった。

一人になると事故のために削られた半日の疲れが出た。なんとか体は無事だったが、自転車も一度はひどい状態になってしまった。そして何より、この国に来て初めの夜に自転車を盗まれ、走り始めて一マイルもないところで交通事故を起こしてしまった。いったいこの先どれだけのトラブルが待っているのだろう。たった六十日と思っていたが、今では全く先の見えない六十日に思えていた。

けれども立ち止まるわけにもいかなかった。度重なる災難は、出発前に気を引き締めよという啓示か、あるいはこれで不運を使い果たした証拠だと思うことにした。実際そうでもしなければ旅を始めることなどできなかっただろう。

モーテルに帰るとベッドの上でもう一度地図を広げ、これから通るはずのルートをしっかりとまぶたに刻んだ。

ぼくが計画していたルートは、この国の開拓者たちが十九世紀に切り開いていった道を太平洋沿岸から東へと逆に辿っていくようなものだった。西海岸のロサンゼルスからアリゾナの砂漠を抜け、ロッキー山脈を越えて中部の大平原に至る。メインストリート・オブ・アメリカと呼ばれるルート66をひたすら走り、西部開拓の玄関口であるミシシッピ川沿いのセントルイスまで。そこからアパラチア山脈を越えて東海岸に出れば大都市圏にぶつかる。

ワシントンD・C、フィラデルフィア、ニューヨーク。約二ヶ月の旅の中で季節は真夏のカリフォルニアから秋のニューヨークへと変化していく。ぼくはそんな旅の中でどんな人々に会えるのか少なからず期待していた。

翌朝、モーテルを出た。今度こそ出発だった。荷物をまとめて目の前の通りに出ると、この何日かで見慣れたはずの景色が新鮮に見えた。アスファルトが銀色に輝いて眩しい。ペダルをこぎ始めると街の景色は次々と移り変わっていく。高級住宅街を通り、ダウンタウンを抜けると高層ビルもなくなり、しばらく走るとときおり遠い山々が視界の端に見えた。 

街道沿いを無数の車が行き交っている。彼らはどこまで行くのだろう。いきつけのファーストフードにハンバーガーを買いに。あるいはガールフレンドを乗せて郊外の森へ。けれどきっとニューヨークまで行くのはぼくだけに違いない。ぼくはこれから始まる長い冒険を少しだけ誇りに思い、やっと動き始めた風景に少しだけ安堵していた。

そしていつしかこの旅に出るまでのことをとりとめもなく思い出していた。

大学のキャンパスを歩いていた頃、ぼくはその自分がいた風景の中でいつも漠然とした居場所のなさのようなものを感じていた。神奈川県の湘南と呼ばれる海から少し奥に入ったところにある、総合大学のキャンパス。コンクリートを打ちっぱなしの無機質な建物は、人間らしさを欠いた冷たく巨大な構造物でしかなかった。

教室から教室へと機械的に移動し、大人数で受け身の講義を聞く毎日。試験が近づけばどうにか単位を取るだけの最低限のことをやり、なんとか切り抜ける。けれどもそんな色彩を欠いた日々の先に何か重要なことをしているという手応えが全くなかった。授業中にふとノートを取るのがばからしくなり、窓の外を歩く学生たちを眺めながら、この時間はいったい誰のために流れていくのだろうとぼんやり考え込むことも少なくなかった。

人間関係にしても大切な友人は何人かいたが、浮かれてばか騒ぎをするような友人などいなかった。昼休みに生協からテニスサークルの仲良さそうな数人のグループがやってくると、劣等感とも怒りともつかない不思議な苛立ちを覚えた。彼らはなぜこんなつまらない場所で楽しそうにしてるのか。彼らはなぜそんなに世界のありようを肯定できるのか、その元気はどこから来るのかと問いつめたくなったほどだった。けれども実際のところ彼らは何も悪くない。問題はすべて自分の側にあるはずだった。

彼らとぼくは何が違うのだろう。それは友達の多さとか、何のサークルに入っているとか、そんな表層的なことではなかった。それを頭の片隅でずっと考えていたが、やがてそれが自分自身と外界との間に生じる、リアリティの豊かさの違いによるものだ思うようになっていった。

他の人が楽しいと思うことを楽しいと思う。嬉しいできごとがあったら嬉しいと思う。悲しいことを悲しいと思う。きっと彼らにはそれができるのに、ぼくにはできないのだ。物事と感情の因果関係がうまく機能せず、現実のできごとと心がうまく呼応しないといってもいい。ぼくはいつも世界と自分の間にサランラップのような薄い膜が張っているような気がしていたし、現実から自分だけがベロリとはがれてしまったような気がしていた。

そしてぼくはそうした気持ちを抱えながら、よく夕闇の迫る田畑の中を歩いた。小さな川の流れに沿ってあてどもなく行くと、やがて人家の灯りがぽつりぽつりともり、犬の散歩をする女性やジョギング中の男性とすれ違った。ぼくは彼らの足音の確かさに微かな不安を覚えた。どうして彼らの足取りはそんなに確かなのか、どうしてそんなに迷いもなくどこかへ向うことができるのか、と。後に振り返ると、その頃のぼくはぼんやりとだが何十キロも下流の海へと向かって歩いていた。あるいは海という存在の大きさと確かさに引き寄せられていたのかも知れない。

なぜぼくがそうなってしまったのかについては、よくわからなかった。無味乾燥な受験戦争をくぐり抜けるうちにそうなってしまったのかも知れないし、自分自身が大学という自由な空間ですべきことを見つけられないでいただけのことかも知れない。あるいは誰もがそうであるように成長する過程で社会や世間のことを少しずつ知り、そこにある息苦しさを知らぬ間にすくいとっていただけのことかもしれない。

いずれにしてもぼくは高校から大学にかけての何年間かの間、いつも心の底でひとつのことを感じていた。一年また一年と年を重ねるごとに、ぼくの視界に映る世界のありようが少しずつ豊かさを失っていくのだ。秋から冬にかけて街が色彩を失っていくように、将来とか未来とかいった言葉が持つ響きも、心浮き立つようなものから重苦しいものへと変わっていった。

そしてなぜ自分がそうなったのかと問うよりも、その欠落した現実世界の豊かさをどうにかして獲得することの方がはるかに重要だった。それはぼく自身がこれから生きてゆく中で、ささやかながら幸せの断片のようなものを見つけるのに絶対に必要なことだと思っていた。

欠落したリアリティの豊かさを取り戻す。いったいどうすればそんなことができるのか。ぼくには一つだけ手がかりになるものがあった。それはクラブ活動のヨットだった。

ぼくが大学のクラブ活動でやっていたヨットは、オリンピック競技のような二人乗りの小さなものではなく、冒険家が世界一周するような居住スペースのあるものだった。オンボロだったが貧乏学生が金を出し合ってひとつの船を管理し、それで外洋航海に出たり、レースに参戦していた。

そしてそんな活動の合間に海が荒れてくると、決まってなぜだか奇妙な胸騒ぎのようなものがしてくるのだ。なぜそうなるのかわからないが、そのときだけは自分と外部世界の間の薄い膜がなくなっていく気がした。その「胸騒ぎ」の方ににじり寄っていくこと。それはこの世界を生きていく手がかりとしては途方もなく漠然としていたが、ぼくにとって閉塞を打ち破る極めて切実な意味を持つものとしてあった。

一方で、そうしたぼくの日常とは全く別のところで起きたアメリカの同時多発テロ事件があった。ぼくはその事件の夜、ヨットの世界大会の遠征資金を稼ぐために、荷物の仕分けの深夜バイトをしていた。その合間の休憩室のテレビであの事件を知ったのだ。澄み切って雲ひとつないマンハッタンの空に不吉な黒煙が立ちのぼる映像。

「これは現実の出来事です」

そんなアナウンスが流れても全くその感覚をつかめない。それでいて不思議な静物画のような映像の向こうに微かな心のざわめきを感じていた。それは悲しいとか痛ましいとか、そんな感情の名前を付ける以前の、もっと原初的な心のうずきのようなものだと言えた。それまで何も起きなかった自分自身の世界に、言い知れない何かが起きたのだと感じたのかもしれない。その後、報道の中心がアフガニスタンからイラクへと変わっていった後も、それらの悲劇をただの情報として無感動に受け取っている事実とは別に、いつもそのざわめきは心の片隅にあった。そしてそれは海が荒れてきたときに感じる心のざわめきと似た種類のものであることをどこかで感じていたが、ただ、それだけだった。それから何年かぼくはクラブ活動のヨットに打ち込み、とりあえずのところそうした胸騒ぎを棚上げにして過ごした。

けれどもヨットを引退し、大学生活が残り一年を切って周囲が次々と大企業の内定を勝ち取っていく頃、ぼくはこの世界を生きていくすべを何ら持ち合わせていないことに気づき、空恐ろしくなった。

それはちゃんと勉強してこなかったとか、きちんと仕事ができるかという不安の他に、自分と外部世界のできごとが全く共鳴し合わないという根本的な問題としてあった。世界と自分の関係のありようを全く肯定できなかったと言ってもいい。

そしてぼくはその根本的な問題を解決するためにひとつの仮説を立てた。「胸騒ぎ」や「ざわめき」はぼく自身と外部世界とを繋ぐミッシングリンクのようなものではないか。あるいは壁で囲まれた狭い牢獄のような場所と外の自由な世界を繋ぐ通気口のようなものではないか。自分はその通気口を通して辛うじて呼吸ができるのではないか。

大学という滅菌された空間ではなく、どこか心が正常に機能するフィールドへと自分自身を持っていかなければならないのではないか、と。

そんな漠然とした考えのもと、ぼくはあの深夜のアルバイトの休憩室以来、自分の中に微熱のようにあり続けた胸騒ぎの方にすり寄っていった。ぼくの意識がアメリカに向かって大きく突き動かされる背景にはそんなことがあった。

あるいはそのころのぼくを見て、それはただの逃げであると見る人も少なくなかった。旅が逃げ場と紙一重であることはぼく自身、よくわかっているつもりだった。だからこそぼくは人々へのインタビューという行為を選んだ。旅の中に他者性を持ち込むことで、旅が逃げ場ではなく、あくまで通気口の向こう側との作用、反作用の確認であることを自分に言い聞かせていた。

「戦争はなぜなくならないのか」

この問いは、たぶんに命のあり方について他人に問いかけることだ。そしてそれがどんなかたちであるかわからないにせよ、問いかけた結果の中に、現実世界がぼくの心に切実な響きを持って立ち上がってくる瞬間が必ずあるはずだと思った。ぼくは無意識のうちにそれを欲していたのかもしれない。あるいはこうも言い換えられる。ぼくはこの旅の過程を通して日常に息苦しさを感じていた自分自身を治癒したかったのだ、と。

ぼくはアメリカ人に英語ではまず説明することのできない理由を抱えて、この国に来てしまっていたのだ……。

やがて風景は都市から郊外へと移っていった。太陽が傾き始めるころ、遠かった山々が近づいていた。あの山々の向こうにどんなことが待っているのだろう。流れていくオレンジ色の街並に小さな期待と不安が踊っていた。

(つづく)

<目次>

【プロローグ】―なぜ戦争はなくならないのか―
【第一章・洗礼】―翌朝目が覚めると、さらに厳しい現実があった―
【第二章・ユダヤの眼差し】―「ユダヤもアラブもない。問題は人間のさがにある」―
【第三章・海辺の墓標】―怒りを訴えたいのか、悲しみを訴えたいのか―
【第四章・救命者の矛盾】―「自由を守るという物語に流されていったのよ」―
【第五章・渇きの果てに】―それらはあたかも暗い宇宙につつましく瞬く生命の輝きのようでさえあった―
【第六章・荒野の漂流者】―「日本でまた会おう」彼の言葉だけが耳の奥でリフレインしていた―
【第七章・逆境の中の生命線】―「闘いは嫌いだ。でも彼らをリスペクトしている」矛盾しているとぼくは思った―
【第八章・自由とは何か】―「自由万歳」を置き換えてみるとわりとよくわかる―
【第九章・オクラホマの風の中で】―彼女はこの場所でぼくと同じ歳で亡くなった―
【第十章・地図の上の1セントコイン】―それは戦争の是非を問うことと同じくらい大切なことに思えた―
【第十一章・ある記憶との闘い】―私は弱さを持った人間を探していた。どこかに自分と同じような人を探していたのよ―
【第十二章・シェルター】―ぼくは「彼ら」から逃げない人間になりたい―
【第十三章・マイノリティの居場所】―“There is no way to Peace,Peace is the way.A.J.Muste”―
【第十四章(最終章)・無限のざわめきの中へ】―その豊かさは残された救いのようでさえあった―

【著者プロフィール】

矢田 海里(やだ かいり) ライター・フォトグラファー。1980年、千葉県生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒。在学中、イラク戦争下のアメリカ合衆国を自転車横断しながら戦争の是非を問うプロジェクト“Across-America”を行い、この体験を文章にまとめたアクロス・アメリカを執筆。フィリピンのマニラのストリートに潜入し、子どもたちや娼婦たちの暮らしを見つめ、ルポルタージュを執筆中。東日本大震災発災直後に現地入り、ボランティアの傍ら現地の声を拾い始める。以降現地に居を構えながら取材を続ける。放送批評雑誌『GALAC』に「東北再生と放送メディア」を連載。冒険家やアスリートを紹介するサイト「ド級!」でエクストリーマーの一人に選ばれる。「不確かさと晴れやかさのあいだ」をテーマに人間の内面を描き続けている。

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